【第二十五章】 ゆがんだカノン

 学院祭の正午が迫っていた。  

 普通ならチャイムで告げられる昼の時間を、この学院では長らく《カノン》が担っていた。パッヘルベルの有名な旋律は、伝統ある校風にふさわしく、どこか格式高い雰囲気を醸していた。

 「学院祭の昼の《カノン》は、学院伝統の演出でね。いつものCDじゃなくて、今朝、合唱部と器楽部が演奏した音源をそのまま流してるのよ」

 さやかが言う。

 だが、いぶきの耳に届いた《カノン》は、どこか違っていた。

「……今の、聴いた?」  

 いぶきが小さく呟いた。

 曲の途中、“シ♭”の音だけが、明らかにズレていた。 旋律の流れに突如として生じた異物感。多くの生徒はそれを「古いCDかな」「スピーカーの調子悪い?」といった他愛ない理由で片づけたが、いぶきの反応は違った。

「……シ♭が、461ヘルツだ。標準は466なのに」

 傍にいたミユがぽかんと口を開けた。

「なにそれ?」

「ピアノの調律が狂ってる。生演奏を録音したデータを使ってるなら、原因はそっちにある」

 いぶきの言葉に、さやかが眉を上げた。

 いぶきはすぐさま視聴覚室の裏手、音源機材の置かれたブースへと向かった。

 学院祭中のため、ブースの鍵も簡易解放されており、音響卓やPAラックへのアクセスも容易だった。

 そこには録音用の古いマイクと、今朝の演奏が収められたばかりの機器が設置されていた。

 そして、ミユとともに講堂へ向かった彼は、舞台脇のアップライトピアノの前に立った。

 鍵盤を一つずつ丁寧に押していく。  

 やがて、問題の“シ♭”で手が止まった。

「やっぱり。この弦だけ、わずかに緩んでる」

 彼はスマートフォンを取り出し、調律アプリを起動させた。

「……弦を張り直すよ。少し静かに」

 静寂の中、いぶきの指が精密な調整を行う。  やがて、スマホの画面に「466 Hz」と表示された。

 その瞬間、ミユが横でぽんと手を打った。「じゃ、あたしが伴奏やる!」

 彼女はスマホの音源アプリを開き、タッチ式鍵盤を即席で操作する。  

 旧視聴覚室から持ち込んだスピーカーを繋ぎ、電子音が館内に響き始めた。

 その音に合わせて、合唱部の数人が控え室から現れ、即席のコーラスを添える。

 今度の《カノン》は正確で、調和に満ちていた。

 いぶきは一歩後ろに下がり、音の波に身を委ねていた。

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