第12話 ラングドシャ
エレーンは小さく吐息をついて、ラングドシャを一つつまむと口に入れた。
口の中で、あっという間にザクリと崩れ、溶けて行く。
(わたくしは、あの人からは、このラングドシャのように思われているのかしら……)
ふと、胸に呟いた。
「浮かない顔ね、エレーン。何か心配事? それとも、ラングドシャがお気に召さなかった?」
向かいの席のフェリシテが、そんな彼女に声をかける。
エレーンとフェリシテは幼いころからの友人だ。それぞれ結婚して家庭を持ったあとも、こうしてたまに一緒にお茶をしたり、出かけたりする。もちろん、互いに悩みを打ち明けあったり、秘密を共有したりすることもあった。
「いえ、お菓子は美味しいわ。……そうではなく、夫のことでちょっと……」
エレーンは慌ててかぶりをふったものの、先の言葉を言いよどむ。
「あら、アロイスのことで何か悩んでいるの? なら、わたくしにも教えてちょうだい。話すだけでも、楽になってよ」
フェリシテの言葉に、エレーンは彼女の言うとおりだと思い直し、口を開いた。
「夫のアロイスは、わたくしをまるで壊れ物のように扱うの。優しく……そう、それこそこのラングドシャのように」
ラングドシャは、軽く壊れやすい菓子だ。先程エレーンが食べた時がそうだったように、歯で強く噛まなくても、舌で上あごに押し付けるだけで崩れていく。
「横柄で、乱暴な男性が夫であるよりは、いいのじゃなくて?」
フェリシテが問うと、エレーンは困ったように両手を揉み絞った。
「わたくしも、最初はそう思っていたの。でもその……なんだか物足りないのよ。だって夫は……ベッドの中でもそんなふうで……」
言いさして、エレーンは赤くなって俯いてしまう。
「ああ、そういうことですのね」
フェリシテは、「はしたない」とは言わず、納得したようにうなずいた。
エレーンにとって、彼女のこういうところは、昔からありがたいと感じられる。他の者なら目を剥いて騒ぎ立てるようなことでも、彼女は平然と受け止め、話を聞いてくれるのだ。
フェリシテはしばし考えていたが、ややあってこう言った。
「来週、時間があるなら、観劇に行きませんこと? そこでわたくし、あなたの悩みを解決できる方を、紹介できると思うのよ」
「え? ええ……ありがとう」
それがいったいどういうことかわからないままに、エレーンはうなずいたのだった。
半月後。
エレーンの環境は大きく変化していた。
なんと彼女には、秘密の恋人ができていたのだ。
お茶をした翌週に、フェリシテが彼女に紹介したのは、一人の男性だった。
エレーンの夫アロイスと、年恰好は似ていたが、彼と違ってワイルドな風貌と物腰を持つ男で、名をオーギュストといった。
最初は一緒にお茶を飲む程度のつきあいだったが、エレーンは次第に彼に惹かれて行き、いつしか恋人同士といっていい関係にまで発展していたのだ。
彼は普段もワイルドだったが、床の中でも同じくで、エレーンはいささか乱暴に抱きしめられ、揺さぶられ、高みに上げられては落とされるといった具合だった。
だがそれは、夫からは得られたことのない快楽と満足感で、エレーンは自分が会うたびにこの男に強く惹かれていくのを感じるのだった。
とはいえ、この関係をずっと続けていていいわけがない。
エレーンは夫を愛していたし、夫には自分を優しく扱いすぎるという点以外には、なんの不満もないのだ。
(わたくしは、どうすればいいの?)
エレーンは夜ごと日ごと、自分自身に問いかけるが、良い答えは浮かばない。
フェリシテは、「ある程度満足したら、あまり深みにはまらないうちに別れるのが、賢い付き合い方よ」と言う。だがその潮時も、エレーンには今一つよくわからず、見極めがつかなかった。
そんなある日のことだった。
(あら?)
オーギュストとの逢瀬の夜、エレーンは彼の横顔に、小さく目を見張った。
今まで気づかなかったけれども、オーギュストのこめかみ――髪と額の際のあたりには、小さな痣があった。それは、エレーンの夫アロイスにもあるもので、こんな偶然があるものかしらと、彼女は首をかしげた。
それから、ベッドの脇のランプの光に浮かぶ、彼の顔の輪郭を注意深く見やる。
そうして見ると、彼のそれは見慣れた夫の横顔にそっくりだった。
(まさか……そんな……)
エレーンは小さく息を飲み、それから改めて夫とオーギュストについて考えを巡らせた。
そして彼女は、夫が十代のころに役者を目指していて、実際に演劇の勉強もしていたという話を思い出す。また、オーギュストを紹介してくれたフェリシテは、観劇が好きで役者はもちろん、劇場の支配人や劇団の団長などにも知り合いが多い。そもそも、オーギュストと引き合わせられたのも、劇場だった。
(これは一度、問い詰めてみる必要がありそうね……)
エレーンは胸に呟き、一つの決意を固めるのだった。
その翌日。
帰宅した夫に、エレーンはオーギュストという男を知っているかと尋ねた。
アロイスは最初、「誰だいそれは」などととぼけていたが、彼女がオーギュストにもあなたと同じ、こめかみに痣があると告げると、一瞬息を飲んだあと、がっくりと肩を落とした。
「オーギュストは、あなたでしたのね?」
エレーンがいささか厳しい口調で問うと、彼は肩を落としたまま、うなずいた。
すっかり意気消沈した様子の彼に、エレーンは思わず吐息をついた。
「いったい、どうしてそんな……。わたくし、この先どうしたらいいか、とても悩んでいましたのよ」
「すまない……」
うなだれたままアロイスが言うには、エレーンが彼に対する不満を打ち明けた日、フェリシテが彼の職場に会いに来たのだという。そしてそこで二人きりになると、フェリシテはエレーンの不満を彼に話して、こう言った。
「急に乱暴にふるまうのは難しいでしょうから、別人のフリをするのはどうかしら。あなたは若いころ、役者の勉強をしたことがあったのでしょう? だったら、演技で自分ではないワイルドな紳士になり切ることもできるのではなくて?」
そして、知り合いの劇団長から、人相を変えるための化粧品や衣類などを借りて、彼に渡したのだという。
つまり、仕掛け人はフェリシテだったというわけだ。
「実のところ、君がオーギュストとなった私と同衾した時には、驚いたしショックだったよ。君は貞淑な人だと思っていたし……その、そんなに私の扱いが不満だったのかとも、思ってね」
ことの顛末を話したあと、アロイスは言った。
「ただ一方では……君がいつも以上に魅力的に見えて……その……」
この先どうしたらいいのかと悩んでいたのだ――と、彼も小さな声で続けた。
結局のところ、二人は互いに互いの別の魅力を見ることで、より強く愛し合うようになったということだ。
「愛には、ちょっとした刺激も必要ということよ」
後年、フェリシテはラングドシャをつまみながら、よくそう言って笑ったものだった。
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