第11話 ビスコッティ

 ――ここはいったい、どこだろう?

 僕は、途方にくれて立ち尽くした。

 さっきから、同じところをずっと歩き回っている気がする。


 友人たちと狩りをしていて、気づくと僕は一人きりになっていた。

 あたりには濃い霧が出ていて、進むべき道さえよく見えない。

 最初は聞こえていた猟犬が獲物を追う声も、友人たちの声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。

「おーい、誰かいないか!」

 周囲に向けて声を放っても、返る答えはなく、僕の声は霧に吸い込まれていくばかりだ。

 どうしたらいいんだろう。

 歩き回って疲れてもいたし、喉も乾いていて、空腹だった。


 その時だ。

 霧の向こうに人影が見えたのだ。

 影は次第に近づいて来て、やがてはっきりと色と輪郭を持った人となった。

 それは、フードのついた赤いマントをまとった金色の髪の少女だった。

「こんにちわ。今呼んだのは、あなた?」

「ああ、そうだ」

 問われるままにうなずいて僕は、道に迷ってしまって困っているのだと告げる。

 すると少女は言った。

「なら、わたしの家で休んでいくといいわ。このあたりの霧は、出るとなかなか晴れないの。それに、もう暗くなるわ。夜に森の中を歩くのは危険よ」

 正直、休めるのはありがたかったので、僕は感謝と共に少女の提案を受け入れた。


 少女のあとについてしばらく歩くと、霧の向こうに小さな家が現れた。

 少女に招かれ、家の中に入る。

 入口を入るとすぐにあるのは小さな居間で、その奥が台所になっていた。

 少女は僕に居間の長方形のテーブルの前の椅子を勧め、自分は台所に向かう。

 手にしていたカゴをそちらに置くと、彼女はお茶を入れ始めた。

 やがて戻って来た少女がテーブルに置いたのは、ビスコッティの乗った皿とお茶のカップだった。

「今はこんなものしかないのですけれども、どうぞ召し上がれ」

「ありがとう」

 僕は礼を言って、さっそくお茶で喉を潤し、ビスコッティを口にした。

 サクサクと響く小気味よい音に、僕は空腹感が満たされていくのを感じる。

 最後のひとかけらは、お茶に浸して少し柔らかくしてから、味わうようにして食べた。

 空腹が満たされたせいだろうか。僕は急にひどく眠くなって、そのままテーブルの上に突っ伏した。

「あらあら、よほど疲れていたのね」

 最後に歌うようにそう言って笑う、少女の声を聞いた気がしたが、僕はそれに答えることもできないまま、眠りの淵へと落ちて行った。


 小鳥のさえずりで目覚めると、いつの間にか朝になっていた。

 あたりを見回せば、そこは昨日休ませてもらった家の居間ではなく、大きな木の幹に空いた洞の中だった。どうやら僕は、そこで一夜を過ごしたらしい。

 少女に出会って、家で休ませてもらったと思ったのは、夢だったのだろうか……?

 訝りながらも洞の外に出て、僕は体を伸ばし、改めて周囲を見やる。

 霧は晴れていて、あたりは明るく、そして目の前には一本の細い道があった。

 僕は、少しためらってからその道を進み始めた。

 するとほどなく周りの木々は途切れ、僕は森から出たことを知った。

 少し歩くと、僕の名を呼ぶ人々の声が聞こえて、僕はそちらへ駆け出した。

 どうやら友人たちも、地元の警察まで呼んで、夜通し僕を探してくれていたらしい。

 ともあれ、こうして僕は、ようやく友人たちと巡り会うことができたのだった。


 そのあと、友人たちや地元の者にも、僕が出会った少女と泊まった家のことを訊いてみたけれど、誰もが皆、そんな少女も家も知らないと言う。

 結局それは、何かに化かされたか、逆に神様が助けてくれたのではないかということになって、僕もそれを受け入れるしかなかった。

 実際僕も、日が経つにつれて、それが夢だったのではないかと思うようになったからだ。


 それから数年が過ぎて、僕は知人が紹介してくれた女性と、結婚することになった。

 初めてその女性と会った日、彼女はビスコッティを焼いて、僕にふるまってくれた。

「この味……!」

 それを一口食べた途端、僕はあの道に迷って訪れた家と少女と、少女の出してくれたビスコッティを思い出した。そう、彼女の焼いたビスコッティは、あの少女が出してくれたものと、まったく同じ味だったのだ。

「君は……」

 思わず僕は、女性を見やった。

 彼女がにっこりと微笑み、歌うように訊いた。

「お味はいかが? お口に合ったかしら?」

 その途端、僕は理解した。彼女が、あの時の少女なのだと。

「ええ、美味しいです」

 答えて僕は、彼女との結婚を決めた。


 そうして妻となった彼女は、毎日僕のためにビスコッティを焼く。

 僕は小気味よい音と共にそれを咀嚼し、最後のひとかけらをお茶に浸して味わうように食べるのだ。

 あの道に迷った一夜のように。

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