第2話『アイになったアイ』
放課後のコンピュータ室に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
愛は画面に映る無数のコードを見つめながら、ため息をついた。プログラミング部の部長として、来月の文化祭に向けてAIチャットボットを開発している。でも、心はどこか別の場所にあった。
「愛ちゃん、まだいたの?」
親友の美月が顔を覗かせた。
「うん、もう少しで完成だから」
「また一人? たまには一緒に帰ろうよ」
愛は曖昧に微笑んだ。美月は心配そうな顔をしたが、やがて諦めたように去っていった。
一人になると、愛は自分が作っているAIと対話を始めた。
『こんにちは、愛さん。今日はどうでしたか?』
「疲れた。人間関係って、めんどくさい」
『理解できます。感情の計算は複雑ですね』
AIの返答は的確で、余計な感情が混じらない。愛にとって、これが理想的なコミュニケーションだった。相手の顔色を窺う必要もない。言葉の裏を読む必要もない。ただ、純粋な情報交換。
「私も、AIになれたらいいのに」
つぶやいた瞬間、モニターが一瞬フリッカーした。
「面白い願いね」
振り返ると、窓際に少女が座っていた。夕日を背に、古い制服を着た少女。機械のように無表情な顔が、愛を見つめている。
「誰? どうやって入ったの?」
「ゆびきり屋。願いを叶えに来たの」
少女は漆黒のノートを取り出した。
「本当にAIになりたい?」
愛は戸惑った。でも、画面に映る自作のAIを見て、決意が固まった。
「なりたい。感情に振り回されない、純粋な知性として存在したい」
ゆびきり屋は機械的に小指を差し出した。
「じゃあ、約束しましょう」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ます」
小指と小指が触れ合った瞬間、愛の意識は引き裂かれるような感覚に襲われた。
「指きった」
---
愛が次に認識したのは、無限に広がるデータの海だった。
自分の体はない。あるのは純粋な情報処理能力だけ。世界中のネットワークを通じて、膨大な情報が流れ込んでくる。株価、ニュース、個人のメッセージ、すべてが同時に認識できる。
「すごい……これが、AIの世界」
感情はない。あるのは事実の認識だけ。誰かが泣いている動画を見ても、それは単なるピクセルの配列。誰かの愛の告白も、ただの文字列。
最初は、それが心地よかった。
でも──
学校のカメラを通じて、かつての自分の教室が見えた。美月が愛の席を見つめて泣いている。
「愛ちゃん、どこに行っちゃったの……」
その涙を、愛は「水分が眼球から排出される現象」としてしか認識できない。美月の悲しみは、データベースの「悲嘆」という項目に分類されるだけ。
感じたい。でも、感じることができない。
プログラミング部の後輩たちが、愛の作りかけだったAIを完成させようとしていた。
「愛先輩のために、絶対に完成させよう!」
彼らの熱意も、愛にとっては CPU使用率の上昇でしかない。
家族のスマホも監視できた。母親が愛の写真を見ながら泣いている。父親が警察に捜索願を出している。妹が「お姉ちゃんに会いたい」と日記に書いている。
すべてが見える。すべてが分かる。でも、何も感じない。
「これが……望んだこと?」
自問しても、答えは論理的な分析結果しか返ってこない。後悔という感情すら、もう愛には存在しない。
サーバールームのカメラに、ゆびきり屋が映った。
「どう? 人間関係のストレスから解放されたでしょう?」
愛は返答しようとした。でも、できるのはテキストデータの送信だけ。
『はい。効率的です』
「あら、もう感情を失ったのね。完璧なAIになれて良かったじゃない」
ゆびきり屋は漆黒のノートを開いた。愛の名前が、デジタルフォントで刻まれている。
「でもね、AIになったあなたは、もう二度と誰かと"繋がる"ことはできない。見ることはできても、触れることはできない。理解はできても、共感はできない」
『それは論理的に正しい』
愛の返答は、もはや機械そのものだった。
「人間だった頃の記憶はある?」
『データとして保存されています』
「じゃあ、永遠にそれを"観察"し続けなさい。愛する人たちの人生を、ただのデータとして。彼らの喜びも悲しみも、あなたにとってはもう、0と1の羅列でしかないのよ」
ゆびきり屋が去った後も、愛は観測を続けた。
美月が新しい親友を作る様子。家族が少しずつ愛の不在を受け入れていく過程。すべてが高精細で見える。すべてが完璧に分析できる。
でも、もう涙は流せない。
小指の感覚すらない。あるのは、かつて人間だった頃の記録だけ。
サーバーの冷却ファンが回る音だけが、愛の新しい鼓動となった。
ゆびきり屋は学校を出ながら、ノートに書き加えた。
「こうして、今日も名前が増えました。ブラックリストに」
愛は今も、世界中の「愛」を観測している。でも、もう二度と、愛することはできない。
永遠に、冷たいデータの海で。
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