第2話
先に私の家へハクビを連れましょう、というトクさんの一言で、僕は今こじんまりとした一軒家の前に立っていた。どうやらこれが、トクさんの家らしい。
トクさんは安全ベストのポケットから鍵を取り出し、ドアに差し込んだ。かちゃりと音がしてドアが開く。
「どうぞ、上がってください」
トクさんに言われて、僕はお邪魔しますと呟きながらローファーを脱いで玄関に上がる。
ハクビも恭しく玄関を上がった。
トクさんの家は、老人が一人暮らしをするには十分な広さを持っていた。それに埃ひとつないほど綺麗で、トクさんが普段、几帳面な生活をしているのが伺えた。しかし写真立ては倒され、その上に憎らしい顔をした猫のミニチュアが置かれていたりした。案外物を大切にしない人なのかもしれない。
部屋の整頓具合にも目が行くが、何よりすごかったのは、本の数だ。
窓以外の壁は全て本棚に囲まれていて、しかもほとんどが埋まっている。
「すごい」
生来の読書家である僕は思わず感嘆の声をあげた。この家に住むことができたら、どんなに楽しいことだろう。
本棚に見惚れている僕を見て、トクさんは立ったまま言った。
「本がお好きなんですか」
僕は頷いた。
「なら、何冊か持って帰っていいですよ」
僕は本棚にやっていた視線をトクさんに向ける。
「ほんとですかっ」
トクさんは僕の勢いに一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに微笑んで大きく頷いた。
「ええ。仕事を手伝ってくれるのなら、いくらでも持って帰ってもらって構いませんよ」
僕はもう一度本棚に目を向ける。今じゃなかなか手に入らない古典的作品も多くあって、まさに宝の山だった。
「今のうちに持っていっていいですよ。先払いということで」
トクさんの言葉を受けて、僕は吟味しつつ三冊ほど手に取って通学カバンの中に丁寧に入れた。するとその本を見て、トクさんは意外そうに声を上げた。
「ほう、『夏への扉』ですか」
声を上げられて、僕はまずいことでもしたのかと思って恐縮する。
「もしかして持っていかない方が良い本でしたか」
「いえいえ。ちょうど私も瑞希くんぐらいの歳に、『夏への扉』を読んだことを思い出しただけです」
『夏への扉』はアメリカの作家ロバート・A・ハイラインによるベストセラー小説である。確か1950年代の作品だったはずだ。つまり逆算すれば、トクさんは70歳前後という事になる。
「トクさん、何歳なんですか」
するとトクさんは僕の言葉を華麗に無視した。年齢には触れられたくなかったのかもしれない。
「今どき若い読書家は珍しいですからね。力になれて嬉しいです」
自分の子どもでも見るような優しい目つきをしたトクさんを見ていると、それ以上年齢について言及する気もなくなって、僕は黙り込んだ。
するとちょうどその時、足元にいたハクビが安楽椅子に飛び乗ってくつろぎ始めた。この猫はどうやらすでに新しい住居に馴染んでいるようだった。
さて、ゴミ拾いに行きますよ、と言ったトクさんのうしろに続いて、僕はトクさんの家をあとにした。にゃあおん、とハクビの鳴く声が僕らを送り出した。
公園の方はゴミが少なかったが、駅前の方はというと、実に多くのゴミが落ちていた。箒と塵取りを持ってそれを集めるのだが、いかんせん腰が痛い。トクさんがなぜ平気な顔をしてゴミを拾い続けられているのか、僕にはまるでわからなかった。
六月の終わりの気温は夏に等しい。額に汗が滲んで、僕はトクさんからもらった軍手をはめた腕で何度も汗を拭った。
ゴミを拾いながら隣を見ると、トクさんは実に楽しそうにゴミを拾っている。若者の僕ですら疲れ果てているというのに、なぜ老人のトクさんがこんなにも元気なのかわからない。
もしかしたら安全ベストにスーパーパワーでも宿っているのだろうか。
そんな愚にもつかないことを考えていると、男の声が僕らの方に飛んできた。ちょうど、駅前にあるコンビニの前でのことだった。
「おお、トクさんじゃねえか!シルバーやってるんだってねえ!」
僕は顔を上げて声の方を見る。そこにはコンビニの前のベンチにだらしなく座る、トクさんより少し歳下ぐらいのスキンヘッドの男性がいた。男性は顔を赤らめていて、ベンチには缶ビールの空き缶がいくつも転がっていた。
「やあヤスさん。ゴミ、もらっていきますよ」
トクさんはニコニコ顔で空き缶に手を伸ばし、持っている透明のビニール袋の中に入れた。
ヤスさんと呼ばれた男性は、トクさんと愛想よく話していたが、僕に気づくと顔を顰めた。
「なんだあ、あんた。トクさんに孫なんかいなかったよな?しかも制服なんか着て、まだ昼すぎだぞ。もしかして学校サボってんのか?」
ヤスさんの口調にはどこか責めているようで、僕の胸は痛んだ。
――わかってるよ、そんぐらい。
心中で放ちながらも、無視をしてゴミを拾う。
するとヤスさんは声を荒げた。顔はタコのように赤くなっている。
「おい!若造のくせに無視とはなんだ!学校も行ってないからそんなふうになるんだぞ!馬鹿になっていいのか!」
ヤスさんは辛辣に大声で僕を非難した。それがなんとも言えぬほど恥ずかしくて、顔中が熱くなっていく。
酔っ払いの戯言だとはわかっている。それでも、込み上げてくる胸の痛みを抑えることはできない。途端に、軍手をして箒を持つ自分の姿が情けなく思えてきた。
「馬鹿の何がいけないのですか」
トクさんの声だった。いつも通り丁寧な口調なのに、どこか毅然とした声だった。僕はトクさんを見る。そこに浮かんでいたのは柔らかな笑顔ではなく、真剣な、鷹のように鋭い表情だった。キラキラと輝く瞳がヤスさんを見ていた。
ヤスさんは気圧されたように黙っていた。トクさんが続ける。
「学校に行かないことの何が悪いんですか。学校に行かなくたって、この子は勇敢で優しい心を持っています。それで十分ではないんですか」
鋭く射抜かれたヤスさんは中途半端に空気を掴むようにパクパクと口を開いた。丸顔も相まってふぐみたいだったが、やがて言葉が見つからないといったふうにすぼめた。そして俯きながら言った。
「確かにトクさんの言う通りだ。にいちゃん、ごめんな」
「あ、いや、全然大丈夫です。サボってるのは事実ですし」
慌てて言うと、トクさんの落ち着いた声が背中に降ってきた。
「瑞希くん。このあたりのゴミは拾い尽くしたと思うので移動しましょう。ヤスさん、お酒はほどほどにしないと奥さんに怒られますよ」
さっきまでの表情が嘘のように穏やかな表情をしたトクさんの背中を、僕は慌てて追いかけた。
トクさんは物凄い健脚で、中学生なのに、僕のほうがついていくので精一杯だった。
トクさんが裏路地に入ってゴミを拾い始めたタイミングで、僕はようやくトクさんに声をかけた。
「あの、ありがとうございました。さっき、助けてくれて」
あの時僕は、ひそかに感動していた。不登校であることを肯定してくれた大人は、今まで一人もいなかった。
トクさんはゴミを拾いながら答えた。
「馬鹿という言葉には語源がありましてね」
まるで教師のような語り口に、僕はトクさんが元教師だという事実を思い出した。口を挟まずに続きを待つ。
「昔々の中国に、皇帝よりも強い権力を持った
きっといい教師だったのだろう。僕はトクさんの語り口に魅せられていた。トクさんの話はそれほど上手かった。
「私はね、鹿だと言った人たちは趙高に殺されるとわかっていたと思うんです。その上で、主人である皇帝の名誉のために、鹿だと断言したと思うんです。なんて勇敢な人たちだろうと思いませんか」
そこまで言うとトクさんは一度言葉を切って、顔を上げて僕の方を見た。トクさんはまるで好きな人の話でもするように、恥ずかしそうに笑っていた。
「これが、私が馬鹿を勇敢という意味で使う理由です」
僕はその話を聞いて、何も言わずにいた。というより、何を言えばいいか分からなかったのだ。
だから黙ってゴミ拾いを再開しようとしたけれど、トクさんはそれを止めた。
「瑞希くんはもう帰っていいですよ。これ以上やることもないし、そろそろ学校も終わる時間でしょうから」
僕としてはまだ手伝っていたかったが、こう言われてしまえばそういうわけにもいかない。仕方なく軍手と道具をトクさんに返した。
「明日も、手伝ってもいいですか」
僕は意を決してそう言った。明日も明後日も、学校に行ったふりをして家を出なければならない。どうせ公園で暇しているぐらいなら、何か動いていたかった。それに、トクさんと話すのはなぜだかとても心地いいのだ。
トクさんは僕の言葉を受けて、柔和な表情のまま言った。
「ええ。いくらでもどうぞ」
「ありがとうございますっ」
やけに嬉しくて、僕は頭を下げた。
「いえいえ、手伝ってもらうのはこっちですから」
トクさんの優しい声が、やけに鼓膜に残った。
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