トクさんと僕
kanimaru。
第1話
「馬鹿ですね、あなたは」
六月の終わり。平日。昼前。
目の前にいる好々爺然とした白髪の男は、年輪のような皺が刻まれた顔に緩やかな微笑を湛えて僕を見下ろしていた。上下青の安全ベストは市のシルバー人材派遣のものだったが、彼が着るとおしゃれに見えた。それほど上品な顔に「馬鹿」という単語はあまりにも不似合いだった。
僕は面食らいながらも答える。口を動かすたびに血の味がする。殴られたせいだ。
「そんなこと言われる筋合いはないでしょう」
すると好々爺は目を細めた。目元の皺がより一層深くなる。
「私にとって馬鹿というのは、勇敢な人間を指し示す褒め言葉ですよ」
意味がわからず、僕は何も言えない。
どうしたら馬鹿が褒め言葉になるのだろう。
好々爺は続ける。声も上品で、落ち着きがある。
「あなたは子猫を守ったでしょう。とても勇敢なことです」
前半部分は間違いではない。確かに僕は、公園に捨てられていた子猫がヤンキーじみた男たちにいじめられているのを見て、居ても立ってもいられなくなって男たちを殴った。だが結局返り討ちを喰らって僕はしこたま殴られた。そのせいで今も全身が鈍く痛む。なんとか子猫だけは守ろうと、子猫に覆い被さって亀のようになっていたところを、この好々爺が警察を呼んだと言って男たちを追い払い、助けてくれたのだ。
今子猫は僕を労るように左手を舐めていた。そのせいで妙にくすぐたかったが、悪い気はしない。
しかし、後半部分には誤りがある。僕はそれを訂正する。
「僕は別に勇敢じゃあないですよ」
だって、平日の昼前に中学校の制服でこんなところにいるのだから。
すると、好々爺はおどけた。
「ではまさか、浦島太郎めいた話を期待していたのですか。それとも、子猫を助けなくては自分が死んでしまう予知夢でも見たとか」
「いやまさか。子猫が竜宮城なんか連れて行ってくれないだろうし、予知夢なんか見てないですよ。それに、予知夢なんか見たら人生つまらなくなりますよ。未来が全部わかっちゃうなんてまったく面白くない」
すると好々爺は、なぜか嬉しそうに目を細めた。
「申し遅れましたね。私はトクさんと言います。漢字はまあいいでしょう。シルバーで働いていまして、今日はこの公園の掃除に来ました」
確かにトクさんは大きなゴミ袋を持って軍手をしていた。
「その子はどうするのです」
トクさんは公園に落ちているゴミを拾い始めながら言った。その目はついさっきまで子猫が入っていた「拾ってください」と丸字で書かれた段ボールに向いている。
「僕は飼えません。マンションがペット禁止なので」
「なら、うちで迎えますよ。老人の一人暮らしなので、寂しくて仕方ないんです」
トクさんはゴミを拾おうとかがみながら笑った。相当な歳だろうに、よくもそんな簡単にかがめるものだ。
「そうですか。それならありがたいです」
僕は手元にいる子猫に目をやる。純白の毛に丸い月のような目をした、賢そうな猫だった。
「今のうちに名前でもつけておきますか」
トクさんはそう言うと、子猫の方に目をやった。その目はやけに優しい。
トクさんは綺麗に整えられた自らの白い髭を撫でて、考え深げに言った。
「ハクビでどうでしょう」
「ハクビ?」
僕は思わずオウム返しをした。てっきりシロとか、そんな名前にするのだとばかり思っていた。
トクさんは白い髭に囲まれた口を開く。その動作ですらどこか優雅だった。
「白い眉と書いて、白眉ですよ。賢い、優れた人に対して使う言葉です。この子は賢そうだし、白いじゃないですか」
僕はもう一度子猫に目をやる。言われてみると、ハクビという名前は子猫に似合っているように見えるのだから不思議だった。
「ハクビ」
試しに僕が呼ぶと、子猫はにゃあおん、と満足げに喉を鳴らした。どうやら気に入ったらしい。
トクさんはそれを嬉しそうに眺めていた。
「じゃあ、決まりですね」
トクさんがそう言ったのを聞いて、僕は立ち上がった。もうお役御免だと思ったのだ。やることがないのなら一刻も早く、この場から去らなければならない。
「警察に通報したというのは嘘ですよ。あれはあの子たちを追い払うために言ったまでです」
僕は驚いて、思わずトクさんを凝視した。そしてトクさんが続けた言葉を聞くと、さらに驚いた。
「あなたも困るでしょう、警察に通報されたら。学校をサボっているのだろうし、親に連絡されたら大変ですもんね」
僕は多少呆気に取られた。トクさんは何もなかったかのようにゴミを拾い続けている。ぱらぱらと砂埃が舞う。
「なんでわかったんです?」
するとトクさんは顔を上げて、はにかみながら頭を掻いた。
「これでも昔は国語教師をやっていましてね」
教師、と聞いて心がずんと重くなる。あの嫌な性格をした担任教師を思い出してしまう。
「不登校なんですか」
トクさんは意外にもずけずけと聞いてくる。だが、嫌な気はしない。口調が上品だからだろうか。
僕は何も言わない代わりに頷いた。
「そうですか」
トクさんはそう言っただけだった。しばらく、沈黙が流れる。ハクビが僕の足元でゴロゴロと喉を鳴らしている。公園の木の影が色を濃くしていっている。
沈黙を破ったのはトクさんだった。
「私の仕事、手伝いませんか」
唐突な提案に、思わず声が漏れる。
「え」
しかしトクさんは表情を変えない。老齢とは思えないほど若々しい光を放つ両目が僕を射抜く。
「どうせ、学校が終わるまでの時間、適当に潰しているんでしょう?だったら、私の仕事を手伝いませんか。少なくとも気晴らしにはなりますよ。もちろん、タダでとは言いません」
僕は束の間、迷う。しかし、どうせやることもないのだからと割り切る。それに、この老人が悪人だとはとても思えない。もしお金でも貰えるならありがたい話だ。
「やります」
トクさんは微笑んだ。皺だらけなのに、やけに美しい表情だった。
「じゃあ一緒に、駅の方のゴミを拾いに行きますか。幸いこの公園は、元から綺麗みたいですし」
「はい」
「ああそれと、あなたのお名前は」
「
すると、トクさんは満足気に呟いた。
「良い名前だ」
それ以上何も言わず、トクさんは確かな足取りで歩き出した。僕もそれに続く。足元のハクビも僕についてくる。
ずっと隠れていた木陰から出ると、思った以上に太陽が眩しくて、僕は目を細めながら歩いた。
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