予定外の幸福

「じゃ、ちょっと行ってきまーす!」


軽い声とともに、《EDEN》の接続装置に入ったのは――三輪崇志だった。


芸術家気質の仮想世界設計主任。 好奇心と遊び心の塊。

今回の“揺らぎ導入アップデート”にあたって、

最初に「自分で試したい」と申し出たのも彼だった。


「今回は“幸福な世界に突発的な不運を混ぜる”っていう実験だよね?

 だったら、誰かが率先して転ぶべきでしょ?」


軽薄そうな笑顔の奥に、確かな設計思想があった。


そして彼は今、没入中だった。



ログイン直後、三輪は自分が“完璧に整えられた和室”に立っていることに気づいた。


障子。 畳。 低めのテーブル。 清潔感。 柔らかな照明。

彼自身の“好ましい空間”がそのまま具現化されていた。


「おお、いいじゃん」


座布団に腰を下ろし、湯呑みに口をつける。 渋めの緑茶が、舌を心地よく通り抜けた。


「やっぱ、自分の設計って最高」


その瞬間。


タンスの角に、右足小指が盛大にぶつかった。


「痛っっっったぁああああああ!!?」


咄嗟に足を押さえ、床をのたうち回る三輪。

反射的にひっくり返した湯呑みが畳を汚し、隣の障子が肘で破れた。


「ちょっ……何これ!? え、誰、こんな“絶妙にダサいパプニング”仕込んだの!?」


天井から、ヤモリの落下。


座布団の裏から、クシャミ連発のレベルで埃。


開けた押し入れから、雪崩を起こすように降り注ぐ座布団と古本。


一つひとつは無害。 だが、無視できないレベルの“うざさ”と“間の悪さ”。


「いやいやいや、なんで!? これはさすがに意図的すぎでしょ……!?」


彼は叫んだ。 が、その声は、やがて笑いに変わっていった。


「……くっそ、……なんだよこれ……バカみたい……!」


肩を震わせ、ついには爆笑する三輪。


「めちゃくちゃじゃん、俺の理想の空間。

 ……完璧にデザインしたつもりだったのに

 ……座布団の位置までこだわってたのに……!」


笑いながら、泣きそうになる。


その時、ようやく気づいた。


笑ったのは、久しぶりだったことに。


この数年、自分の作った仮想空間の“美しさ”ばかりに執着して、

ずっと“ズレ”や“乱れ”を排除してきたことに。

人間の居場所を“理想形”で固めすぎて、空気の流れを止めてしまっていたことに。


だからこそ――転んで、こぼして、破って、笑った。


それは幸福ではなかったが、間違いなく「生きている」感覚だった。


やがて、画面の端に浮かぶログアウト警告。 《残り時間:1時間》


「もう……時間か。 ……あっという間だったな」


破れた障子を見つめながら、三輪はふと呟いた。


「完璧ってのは、退屈の別名だったのかもな」


彼は立ち上がり、意図的にもう一度、タンスの角に足をぶつけてみた。


「……っっっっったぁああああ!! ……よし、満足!」


そして、笑いながらログアウトへと向かった。



「帰還確認。 バイタル正常。 神経波も安定」


「よう……みんな、ただいま」


装置から出てきた三輪は、なぜか顔を引きつらせながらもニヤニヤしていた。


「どうだった?」


白瀬が尋ねる。


三輪は、椅子に崩れ込むように座りながら答えた。


「最高にバカだった。 俺の作った空間なのに、俺の理想を台無しにされる。

 足ぶつけて、障子破って、クシャミ止まらなくて

 ……でもさ、今、やけに“帰ってきた”って感じがしてるんだよ」


「……笑ってる」


有村が呟いた。


「うん。 “快適なだけの世界”じゃ、俺は笑えなかった。

 でも今、笑える。 “完璧じゃない現実”って、なんか……いいね」


そう言って、三輪は足を押さえた。


「ちょっと痛いけどね」


部屋には、初めて本物の“笑い”が広がった。

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