第30話 悪魔を祓う
賽は投げられた。二人の運命を決する、不可逆の契約は結ばれてしまった。
アルテナが大鎌を手に泰然と進み出る。彼女の眼差しの先には、いまだ闇の底で大開きになっている邪竜の顎があった。
「さあ【堕天使】、署名はしたわよ! 早くマーガレットを現世に戻しなさい!」
『おお、良いともさ。望み通り、そこの小娘を解放してやろうではないか。――俺の気が済んだ後でな』
「なんですって……?」
アルテナの声が強張る。次の瞬間、彼女の立っていた場所が音を立てて崩れた。
「アルテナ!?」
マーガレットの脳裏に最悪の光景が広がる。が、幸いにもアルテナはすんでのところでまだ崩れていない足場の縁を片手で掴み、落下を免れていた。
「あんた、契約を違えるつもり!?」
先程までのマーガレットのようにギリギリでぶら下がりながら、アルテナは下の大顎に向かって毒づく。それに対して【堕天使】は、こともなげに言い放った。
『違えるものか。お前の神まで証人となった契約だぞ、そんなことをすれば俺とてただでは済まないからな』
「だったら、なぜ……!?」
『さっきまで見ていた条項をもう忘れたのか? マーガレットとの契約を破棄することは決定されたが、いつ解放するかの期限は記載されていない』
「――!?」
アルテナの目が見開かれる。いや、それはマーガレットも同じだった。
そんなことが、許されて良いのか?
『安心しろ、契約通り俺はもうそいつには拘らん。傷ひとつ付けず、指一本さえ触れずに見守ってやるよ。衣食住も、すべて不足なく提供しようじゃないか。リヴァーデンは俺の街だ。此処では、俺の思い通りにならないことなんか存在しない』
つまり、マーガレットをこのまま飼うということか? メインストリートや、教会で見た光景が思い出される。確かにこの街には、取り込んだ人々の即物的な欲望を満たす力がある。暮らそうと思えば暮らせるのかも知れない。
だがもちろん、そんなことはごめんだった。だが、【堕天使】は続けてこう言ったのだ。
『くくく、契約内容は良く考えて同意しないとな。特に書面の場合、口頭よりもなお厳重な拘束力を発揮する。確かに俺の権能では、契約を結んでいない相手の魂を貰い受けることは出来ない。だが、それだけだ。家に招き入れた客人に、心尽くしのもてなしをしてはならないわけじゃない』
悪意に満ちた声だった。聴いているだけで魂が腐り落ちるような、心が塗り潰されてしまうような、底知れない闇を抱えた意志の声。
【堕天使】の、悪魔の本領を、マーガレットは垣間見たような気がした。
『怖がることはない、怒ったり絶望したりする必要もないぞ。お前達はとても仲が良い友人のようだからな。ずっと一緒に居られるよう、取り計らってやるよ。魂が縛られた、抜け殻のような相方であっても問題はないだろう? 何も不安を感じる必要はない。当初お前が望んだ通りにすべては収斂するんだ、マーガレット。家のしがらみから解放され、新天地で友人といつまでも暮らす。この結果は、お前が頑張ったからこそ得られたものなんだぜ? お前は自力で手に入れた、成し遂げたんだ。だからもう、ゆっくりと休め――マーガレット』
悪意の塊が、マーガレットを誘っている。契約とか関係なく、マーガレットの心に甘く爛れた毒の蜜を流し込んで説き伏せようとしている。
乗ってはいけない、流されてはいけない。それは分かっているのに、抗いがたい魅力をどうしても感じてしまう。
甘い香りに誘惑されるがままにマーガレットが身を乗り出そうとした時だ。
「その通りね、契約内容はしっかりと読み込んで同意しなければならない。まったくあんたの言う通りよ、【堕天使】」
片手で一本で宙吊りにぶらさがったままのアルテナが、落ち着いた声でそう告げる。間髪入れず、悪意そのものな哄笑が闇の空間にこだました。
『ようやく現実を受け入れたようだな! そうさ、お前は――』
「ええ、あんたはミスを犯したわ」
いつの間にか、アルテナはもう片方の手に握っていた大鎌の刃を、自分の体重を支えている方の腕に沿わせていた。
「わたしは確かに、自分の魂を差し出すことに同意した。けれど契約には、それ以外は一切含まれていない」
『――!?』
闇の中で息を呑む気配が広がる。アルテナの言葉の意図は、マーガレットにもすぐに分かった。同時に、〝わたしを信じる?〟と問われた意味も。
「つまり、わたしの血をあんたが得ることも許されない!」
大鎌の刃が躊躇なく引かれる。
アルテナの腕に一筋の線が刻まれ、そこから赤い液体が勢いよく流れ出る。
それは肘を伝い、まっすぐ垂れ落ちて下の大顎に吸い込まれていった。
『き、貴様――!?』
「終わりよ! あんたは、契約に背いた!」
たちまち、大顎の全身に亀裂が走った。周囲を包む闇の様子が乱れ、ぐちゃぐちゃになった絵の具のように歪な色彩を背景に描く。
闇のあちこちに巨大な凹凸が浮かび上がる。表面に掘られた模様から、それらはすべて人の顔に見えた。苦しげに歪み、しかし次第に穏やかな表情に切り替わりながら、闇の空間に浮かんだ顔が次々と溶け落ちるように消滅してゆく。
それはまるで、これまでずっと悪意の街に囚われていた人々の魂が解放されていくかのようだった。
――〝ありがとう〟
闇から逃れられた人々の、そんな声が聴こえた気がした。
『うおおおおお! こんな、ふざけるな! 魂を得るということは、その者のすべてを頂くということだというのに……!』
崩壊が進む闇の世界に、【堕天使】の怒号が響き渡る。しかしその叫びは、既に虚しいものと成り果てていた。
「それはあんたの勝手な解釈よ! 通常ならそれが通ったでしょうけど、わたしとの契約はヘカテーの名が加えられている! あんたのやり方は、とっくに通用しなくなっていたのよ!」
崩れ落ちようとする闇の世界で、【堕天使】の負け惜しみとアルテナの宣言が交錯する。
『おのれ、俺の走狗となった男の孫に過ぎない分際で……! この、たかがひとりの小娘風情がっ!』
突如、マーガレットとアルテナの周囲から無数の黒い手が伸びてきた。鋭く尖った爪が、二人の生命を刈り取ろうと八方から殺到する。
だが、それらの攻撃はすべて途中で弾かれ、無数の黒い手は尽く分解されて散ってゆく。
「悪あがきは見苦しいわよ!」
いつの間にか足場を確保していたアルテナの手に、あの銀のロザリオがしっかりと握られていた。それはサファイアのチェーンもろとも眩い光を放ち、二人を守るドーム状のオーラを大きく展開させている。
「ヘカテーの魔力に悪魔風情が打ち勝てるものですか! あんたとの契約の結果、こうして彼女の力を直接呼び込むことに成功したわ! 神に罰された者が、神の力に勝る道理なんて存在しないのよ!」
アルテナの断固とした宣告と共に世界から闇が剥がれ落ち、代わって青い光が差し込んでくる。
瘴気の暗幕の後ろから顔を覗かせたのは、巨大な丸い月だった。先程まで纏っていた紅い光は影も形もなく、本来がそうであったかのように清明な蒼白を色濃く湛えている。
ヘカテーとは、月の女神。アルテナが口走った言葉をマーガレットは脳内で反芻する。まさしくそれを体現したかのような、神秘的な蒼月だった。
月が発する青い光が、【堕天使】の生み出した世界にトドメの一撃を加える。
今や闇の世界はほとんど透けて消え去ろうとしており、希薄になってゆく邪悪な気配から放たれた最後の捨て台詞がマーガレットの鼓膜を打つ。
『これで終わりと思うな。人間に欲望がある限り、俺は何度でも現れる。お前らの業が、俺を必要としなくなることは決してないのだから――!』
闇が去り光が還る世界の中で、しかしその言葉は不気味な重みを響かせ続けていた。
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