第27話 心の闇との対峙

 具現化したマーガレットの影から流れ込んでくる想念。それはとても暗く、黒く淀んで濁った想いの数々だった。


『なぜ、私の人生はこうも縛られなければいけないんだろう?』


 最初に心に染み込んできたその一言に、マーガレットは背筋が凍りつくような感じを覚えた。

 陰気で抑揚の欠片もないが、それは間違いなく自分の声だ。

 【堕天使】は、あの影をマーガレット自身の心を写し込んだものだと言っていた。それならば、これは……自分自身の心の声なのか?


『貴族の家とは言っても、もう家柄を盾に威張り散らす時代じゃないのに。父が時代の変化に対応してやり方を変えたように、子供の私にだってもっと自由に生きる権利がある筈だ。政略結婚なんて、つまらない家の事情に私の人生を巻き込まないでほしい』


『母も母だ。〝あなたの為〟とかいうお為ごかしを重ねて、私の意思を良いように操ろうとしている。結局は家の評判を気にしているだけなのに』


『結婚相手にしたって、せめてもうちょっとマシな人を選んでほしかった。あんな食事にしか興味がないような醜い男なんて、死んでも嫌。有力商会の跡取りがあれだなんて、聞いて呆れる。父は相手の将来性も見抜くことが出来ないのか?』


 眼前に立つマーガレットの影には、表情らしい表情がない。とても虚ろで、目の色も死んでいる。それなのになぜだろう、あの影から放たれる言葉は一語一語がまるで針のように鋭く尖っており、マーガレットの精神を的確に抉っていく。


「やめて……! 何を言っているの!? 私は、そんなことは思っていない!」


『嘘だ』


 それまで一方的に想念を送ってくるだけだった影が、初めてマーガレットに反応した。虚ろな目に、しかし確かな怒気を湛えて正面からマーガレットを見据えてくる。


『思っていないなら、どうして私はこんな目に遭っているの? たまたま部屋で見つけた胡散臭い悪魔学の本なんかに頼って、バカバカしいと思いながらも時間をかけて儀式の準備を進めたのはなぜ?』


「そ、それは……!」


 影の言葉は、マーガレットの反論を的確に封じてきた。実際その通りなのだ。虚構に過ぎないと思っていた悪魔の存在に、縋ろうとしたのは紛れもない事実である。その結果、こうして自分はリヴァーデンに呼び込まれる羽目になった。


『悪魔に願ってでも、現状を打開したかったんでしょう? もっと自由に生きたい、でもウォレス家という恵まれた環境も維持したい――。おとぎ話に縋ってでも、そんな虫の良い願望を叶えたかった』


 影は、マーガレットがこれまで目を逸らしていたこと、あえて意識してこなかった心の裏を容赦なく暴いてきた。

 そうだ、本当は分かっていたのだ。分かっていて、自分の本心に気づいていないように装った。それは身勝手で、とても醜い奥底の本音だったから――。そんな想いが自分の中にあるなんて、絶対に認めたくなかった。

 だがもう、見てみぬ振りは許されない。耳を塞ぎ、うずくまってやり過ごすことも出来ない。

 自分の汚い部分を、今こうして自分にぶつけてきているのは、他ならぬ自分の影なのだから。


『全部、私が招いたことだったのよ。貴族の義務だと割り切っていたつもりでいても、結局わがままを断ち切れていなかった。そのくせ、豊かな暮らしを捨てて身ひとつで生きていく覚悟もない。どっちつかずで、曖昧で、それでいて自意識だけが肥大化した、憐れでさもしいお嬢様。それが私じゃない。だから悪魔なんかに頼った。そうしたらどうなった? 願い事を曲解されて、そこに付け込まれて、こうして全部を失う瀬戸際に立たされているじゃない。本当に、バカみたい』


 影から垂れ流される呪詛は止まない。その口から飛び出してくる言葉は、全てマーガレット自身の黒い想念である。

 キリキリ、と胸が痛む。見えない刃で斬り刻まれているかのように、影の呪詛はマーガレットの心を苛んでゆく。自分自身の醜さ、浅ましさをこれほどまでに痛感させられるとは思いもしなかった。


 ――恥ずかしい。逃げ出したい。いや、いっそこのまま消えてしまいたい。


 マーガレットの心は悲鳴を上げている。だがその一方で、不思議な感情が少しずつ湧き上がってきた。

 最初はそれがなんなのか分からなかった。しかし、自分自身が抱えていた薄汚い本音の数々を受け止めている内に、辛くはあっても決して折れない芯のようなものがあることに気付いた。逃げたい、消えたいという弱い想いの傍に、ぴったりとそれは寄り添って背中を支え続けている。

 本当に逃げてしまわないように。マーガレットが消えてしまわないように。しっかりと正面を向いて、立ち向かえるように。


「……?」


 無意識に、自分が何か握りしめていることに気付いた。

 手を開くと、そこに収まっていたのはあのロザリオだった。


「アルテナ……」


 これを託してくれた相手の顔が頭に浮かぶ。当の本人の姿は、見えない。今のマーガレットは、自身の影が放つ黒い想念に囚われて他の一切合切から遮断されている。

 その筈なのに、ロザリオから流れ込んでくるのは自分にはない温もりだった。

 まるで、これを通して彼女がエールを送ってくれているかのようだ。


「……そうだよね。私は、もうひとりじゃない」


 ロザリオを握りしめる。アルテナにも、自分の事情を全て話しているわけではない。自分の醜さ、汚さを彼女に打ち明けたわけでもない。

 それでも、アルテナのことを思うだけで身体の震えが緩和される。心の底から力が、勇気が湧いてくる。

 知り合ってからまだ一日と経ってはいないのに、まるで十年来の親友であるかのように確信を持つことが出来た。

 だからこそ、自分はここで立ち止まるわけにはいかない。


「あなたの言う通りよ。私は、ずっと大事なことから目を逸らしていた。良い子ちゃんぶって、でもそうなりきれなくて、中途半端に願望を叶えようとしたから、とうとうこんなことになった。本当に愚かで、どうしようもない世間知らずの小娘よ」


『やっと自覚できたようね。だったら――』


「でもね」


 影の言葉を遮り、マーガレットは肚に力を込める。


「まだ終わりじゃないわ! たとえ崖っぷちでも、私はまだ落ちてはいない! たとえレールの上から完全に外れてしまったとしても、生きている限り諦めたりしちゃ駄目なのよ!」


『――っ!?』


 影の表情が歪んだ。それは、自分の心の闇が初めて見せた、感情の揺らぎ。

 マーガレットは、自分の影に向かって手を伸ばした。


「もう、都合の悪いことから目を逸らしたりしない! どれだけ恥ずかしくても、逃げ出したくても、自分の心の闇に打ち負けるなんてことにはならない! 決して立ち止まらずに突き進んでやる! 私の人生は、私のものなんだから!」


 まっすぐ影を見据えながら、マーガレットはそれに触れた。手の平に力を込め、こちらに強く引き寄せる。


「私がどれだけ格好悪いかは十分に分かったから、さっさと戻ってきて一緒に立ち向かいなさい! この出来損ないの半身!」


『う、わああああ――っ!』


 マーガレットと影がひとつに重なる。瞬間、光が爆ぜて世界が押し流される。

 マーガレットの心に、影が抱えていた想いが奔流のごとく流れ込んできた。それでも、それに圧倒されることはもうない。

 全てが最初からそうだったように、自分の昏い感情が当然のように理解できた。頭で受け入れ、心で解きほぐし、全身にそれを浸透させて消化してゆく。


「大丈夫よ、これこそが本当の始まり。マーガレット・ウォレスの人生は、ここから花開くのよ」


 赤子をあやすかのように、自分自身に語りかける。ざわついていた心の闇が、少しずつ少しずつ静まってゆく。

 光が完全に収まった時、マーガレットは寸前までの灰色の世界に戻ってきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る