第17話 橋上の再会

「――!?」


 マーガレットの声が届く前に、アルテナは素早く戦闘態勢をとっていた。両足を開いて腰を落とし、背中から大鎌を抜き放った彼女の前に、あの黒い大蛇が姿を表す。


 ――グロロロ……。


 喉を低く鳴らしながらアルテナを見つめる黒い大蛇。すぐに襲いかかろうとしている気配はない。


(アルテナがサーヴスかどうかを確かめているのかしら……!?)


 マーガレットは固唾をのんで成り行きを見守った。再び川底から飛び出してきたものの、黒い大蛇の様子はさっきまでとは違って物静かだ。アルテナも焦って動いたりはせず、じっと立ち止まって相手の動きを見定めている。

 やがて、アルテナに興味を失ったかのように短く鳴くと、黒い大蛇はゆっくりと出てきた闇の川の中へ身体を沈めていった。頭までしっかり潜ってしまうのを見届けてから、マーガレットは詰めていた息を吐いた。


「……ぱっ! はぁぁぁ~~……!」


 まさに危機一髪。黒い大蛇が出てきた時は寿命が縮んだが、どうにか戦闘は避けられたようで一安心だ。

 アルテナも戦いの構えを解き、マーガレットの方を振り返って安堵の笑みを浮かべている。


「アルテナの読みが当たったね。やっぱりあの黒い大蛇は、サーヴス以外には興味が無いんだ」


 苦笑いを浮かべて見守るマーガレットの目の先で、アルテナは無事に橋を渡りきった。周囲の安全を確認した彼女は、こちらを振り返り大きく手を振ってマーガレットにも渡るよう促してくる。


「……え? 私ひとりで渡るの……!?」


 アルテナのお陰でそれが可能だと証明されてはいるが、あの黒い大蛇のおぞましい見た目を思い出してマーガレットは身震いした。

 恐らく、自分が橋を渡る時にもあいつが出てくるだろう。ああやって、橋に居るのがサーヴスかどうか自分の目で確かめているんだ。襲われないと分かっていても、あんな怪物とひとりで相対するのは御免被りたかった。


「アルテナ、こっちに戻ってきてよぉ~……!」


 情けない声で向こう側に渡ったアルテナに念を送るも、当然ながら気付いてもらえる筈もなく、アルテナは不機嫌そうに眉を歪めて早く渡ってこいと身振りで伝えてくるばかりだ。

 こうなったら仕方ない。覚悟を決めて、マーガレットは恐る恐る足を踏み出した。

 なるべく橋の真ん中を維持して、息を殺しながらおっかなびっくり歩を進めていく。食べられることはないと分かってはいても、いつあの黒い大蛇が出てくるかと思うとどうしようもなく動悸が激しくなる。


(大丈夫、大丈夫よマーガレット……! ロザリオだってあるし! 仮にあいつに見つかっても、アルテナがやったように動かずじっとしていればやり過ごせるに決まっている……!)


 何度も胸の内でそう繰り返し、首から下げてドレスの内側に潜ませたロザリオに触れながら怖気づきそうな自分を励ます。そもそも、隠れ家に残れと言われたのにそれを拒否して付いてきたのはマーガレット自身なのだ。こんなことで弱気になってアルテナの足手まといになってどうする。みっともない真似は、淑女のやることではない。


(そうだよ、いつまでもアルテナに頼ってばかりじゃ駄目だ。私だって、頑張れるところを見せないと!)


 だんだんと気持ちに余裕が戻ってきた。もしあの黒い大蛇がまた現れても、きっともう取り乱したりしない。自分だってやれるんだって、証明してみせる。

 アルテナは変に急かしてきたりはせず、じっと対岸に佇んでマーガレットを見守っている。その事実だけで、心に勇気が湧いてくるじゃないか。

 アルテナの姿を灯台に見立て、マーガレットは着実に橋を渡っていく。もうそろそろ半分を過ぎる頃だ。

 ちらっと、下の黒い川へ意識を向ける。今のところ、さざ波ひとつ聴こえない。あの黒い大蛇は大人しくしているようだ。


(来るなら来なさい! いつ姿を現そうと、こっちだってもう心の準備は出来て……きゃっ!?)


 不意に、強い風が吹いた。それは思わず目を瞑ってしまうほどで、たまらずマーガレットは足を止めた。

 しばらく耐えているうちに風の勢いは弱まり、それからほんの数秒で止んだ。突然自分を襲った突風に心の中で毒づきつつ、マーガレットは恐る恐る目を開ける。


「……えっ!?」


 橋の上に、さっきまで無かった人影が立っていた。

 アルテナではない。人影の肩越しに、彼女の姿が見える。目を閉じる前と寸分違わず、橋の先でマーガレットが渡り終えるのを待っている。

 だがマーガレットにそちらを気にする余裕はない。全ての意識が、突然目の前に現れたその人影へと集中している。


「あなたは……!」


「やあお嬢さん、まだ元気そうで何よりだよ」


 紺のスーツにトリルビーハット、それに血のような紅い瞳。人を嘲笑うかのような、不敵な笑み。

 間違いない。電車の中で出会った、あの青年だった。


「どうやら君は、運命に抗う力を十分に持っていたようだな。いや、むしろ運と言った方が適切か?」


 青年が、意味深な流し目を背後に送る。

 風と共に現れた謎の青年を前に、アルテナも強い警戒心をむき出しにしていた。既に大鎌を手に構え、臨戦態勢を取っている。声も発さずに、彼女はこちらへ駆け寄ろうと足を踏み出した。


「おっと、迂闊に動くなよ。そこからではあまりに距離が遠いだろう?」


 青年の言葉が、橋へ戻りかけたアルテナの動きを止める。腰を落とした彼女の顔に、苦渋が滲んでいく様子がマーガレットにも見えた。


「そうそう、それで良い。さすがにしぶとくこの街で好き勝手してきただけあって、冷静な状況判断だぜ」


 クックックッ、と喉で嗤い、紅い瞳の青年がマーガレットに向き直る。


「正直、驚いたよ。すぐに喰われると思っていたのに、アイツと出会ってこんなところまでやって来た。世間知らずで何の能もないただのお嬢さんだと思ったが、どうして中々したたかじゃないか」


「あんた……あんたが、この街を創った【堕天使】って奴なの……!?」


 マーガレットは、気持ちが圧倒されそうになるのをどうにか堪えて青年に向かって口を開いた。

 電車の中といい、今といい、この男はあからさま過ぎる。マーガレットでなくとも、誰だって予想できるだろう。

 果たして、青年は酷薄な笑みを顔に貼り付けたまま頷いた。


「ご明答。リヴァーデンは、俺が用意した“餌場”さ。君らのような人間を誘い、その魂を喰らうためにね」


「いったい、何のためにそんな酷いことを……!?」


「酷いこと?」


 青年は、いや【堕天使】は不思議そうに首を傾げた。その目は、本当にマーガレットが言っていることが分からないと言いたげに細められている。


「そんな風に言われるとは心外だな。俺は十分、君達のような人間に報いてきたつもりだ。此処を訪れた連中は、誰もが幸福を享受している。その為のリヴァーデン、その為の契約なんだぜ? 俺が創ったこの街は、多くの人間達の欲望に応えてそれを叶えてきた。君らも散々目にしてきただろ?」


 マーガレットは全身が総毛立つのを感じた。欲望を貪ることだけしか頭にないサーヴス達。あんな生ける亡者になることが、此処にやって来た人間の望みだったと言うつもりなのか?


「ふ、ふざけないで! 人をあんな風にしておいて、何が幸福よ! しかもさっきあなた言ってたじゃない! リヴァーデンは、魂を喰らうための“餌場”だって! それってどういう意味よ!?」


「言葉通りさ。俺は彷徨える子羊に等しい人間達をこの街に連れてきて、その欲望を満たしてやる。代わりに、十分堪能したら対価として魂を貰う。初めからそういう契約なのさ。リヴァーデンにやって来た人間は、誰もがそれを承知の上で俺と契約を結んだんだ」


 【堕天使】が再度流し目を背後に送る。彼の鋭い目線の先に居るのは、同じく険しい表情を顔に刻んだアルテナだ。


「……ごく一部の例外、招かれざる客どもを除いてね」


 マーガレットは、電車の中で出会った時のことを思い出していた。あの時、この男が言っていたのはそういうことだったのか。しかし……


「私は違うわ! あなたと契約なんて結んだ覚えなんて無い!」


「思い出せない、の間違いだろうがマーガレット」


 【堕天使】の眼差しが再び自分に注がれる。その冷徹な瞳に、それでいて獲物をいたぶるのを楽しむかのような口元の笑みに、マーガレットはかつてない恐怖を覚えた。


「時々あるんだよ。契約を結ぶ時の反動で、一時的に前後の記憶が飛ぶことが。お前はそれだ。しかし、事実は変わらない。お前は俺を呼び出し、契約を交わした。だからこそあの電車に乗っていたし、こうしてリヴァーデンにやって来たんだ」


「それは……!」


 否定の言葉を返そうとしたが、できなかった。

 自分が記憶の一部を失っていることは、間違いない事実だからだ。

 だとすると、まさか本当に……!?


「自分を取り巻く事情ってやつを思い返してみろよ。契約した瞬間は覚えていなくても、お前がこれまで歩んできた人生の記憶はちゃんと残っているだろう? それを鑑みれば、自ずと理解できるんじゃねーか?」


 【堕天使】の言葉が、マーガレットの凍てついた心奥を酷く刺激した。


「わ、私は……!?」


 思い出したくもない過去の数々が、一気にマーガレットに襲いかかる。名門に生まれた宿命。両親の期待。何度も臨んだ社交界。周囲の大人達の粘ついた視線。そして――


「マーガレット! 心を乱さないで! 気を強く持つのよ!」


 彼方から飛んできた友達の一喝が、呑まれそうになるマーガレットをすんでのところで引き止めた。

 くらくらする頭をどうにか持ち上げると、揺れる視線の先でアルテナが大鎌を構えながらまっすぐこちらに走ってくるところだった。


「そこのあんた! マーガレットから離れなさい!」


「ふん、頭に血が上って判断を焦ったか。少々期待外れだぜ、お嬢ちゃん」


 【堕天使】は嘲笑を顔に浮かべながら余裕綽々といった感じで指を鳴らした。



 ――ゴガァァァ!!



 途端に、あの黒い大蛇が闇の川から飛び出してくる。鋭い牙の向かう先は、マーガレットではなく……アルテナだ。


「くっ!?」


 水中からの奇襲に気を取られ、アルテナの足が止まる。

 アルテナと自分を結ぶ線を断ち切るように、黒い大蛇がその巨大な胴を橋の上へ打ち付ける。


「ア、アル……テナ!」


 怪物に遮られて姿の見えなくなったアルテナへ、マーガレットは必死に手を伸ばそうとする。

 その細い腕を、【堕天使】が強い力で掴んだ。


「っ……!? はな、して……!」


「お前はこっちだ。安心しろ、特別にこの俺がちゃーんと思い出させてやるよ」


 残虐な笑みを浮かべた【堕天使】が、再度指を鳴らす。

 すると二人の周りで空間がぐわりと歪み、深い闇を湛えた大穴が中空に出現する。

 そして瞬く間に、それはマーガレットを呑み込んでしまったのだ。


「あ……! や……っ!」


 マーガレットの意識が遠ざかる。気を失う直前まで、アルテナの名を心で呼び続けていた。

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