第3話 旅立ちの朝

1. 葛藤と覚悟

神殿での儀式から一夜明けても、アークの心は

ざわめいていた。予言の啓示が脳裏に焼き付いて

離れない。魔王を討つ「光を紡ぐ者」。

その途方もない運命が、平凡な日常を愛する 

アークに、重くのしかかっていた。

朝食の食卓には、祖母ハルがアークのために作った焼きたてのパンと、温かいミルクが並んでいた。

いつもの見慣れた光景のはずなのに、

アークの目には、それがひどく遠いものの

ように感じられた。


「アーク、あんた、顔色が悪いわ。昨日の儀式の疲れかね?」


ハルは心配そうにアークの顔を覗き込んだ。

アークは、昨夜の出来事をハルに話すべきか迷った。だが、自分が「選ばれし者」だと告げれば、

ハルを不安にさせてしまうだろう。何よりも、

自分自身がまだその現実を受け止めきれて

いなかった。


「あぁ、ちょっと寝不足やねん。大丈夫やで、ばあちゃん。」


アークは無理に笑顔を作り、パンをかじった。味はするが、心には何も響かない。彼は、自分自身の心の奥底にある「大切なものを守りたい」という

衝動と、「普通でいたい」という願いの間で激しく揺れ動いていた。

食後、アークは自分の部屋に戻り、旅の準備を始めた。最低限の着替え、少しばかりの食料、そして祖母が持たせてくれたお守り。荷物は驚くほど少なかった。自分が何を探しに行くのか、どこへ向かうのか、はっきりとした目的地があるわけではない。ただ、「このままではいけない」という漠然とした焦燥感だけが、彼を突き動かしていた。


「もし、俺がホンマに選ばれし者やったら……。いや、そんなわけない。でも、もし、もしもやで……。」


アークは自問自答を繰り返した。強大な魔王を倒すなど、想像を絶することだ。しかし、この街の人々、そして何より祖母の笑顔を、あの夜の

魔物の恐怖から守りたい。その一心だけが、

彼を立ち上がらせる唯一の原動力だった。


2. 見送りと別れ

日の出が近づく頃、アークは家を出た。ハルはすでに起きていて、玄関で彼を見送った。


「アーク、あんた、どこへ行くつもりなんや?」


ハルはアークの少ない荷物を見て、全てを察したようだった。彼女は賢い女性だった。

アークは祖母の目をまっすぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「少し、旅に出るわ。このまま、何もしないわけにはいかへん気がして。この街を守るために、俺にできることを探してくる。」


ハルの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は

アークがどれほど「普通」の生活を

愛しているかを知っていた。それでも、

彼の決意を止めることはしなかった。ただ、

優しくアークの手を握り、お守りを強く握らせた。


「あんたは、いつもそうや。自分のことより、人のことばかり気にかける。気ぃつけていきや。元気で帰ってきぃや。」


ハルの言葉は、アークの胸に温かく響いた。それが、彼にとって最大の餞だった。

アークが街の門に差し掛かると、そこには意外な人物が待っていた。老賢者エルトンだった。彼の隣には、数人の神官もいる。


「アークよ。」


エルトンは静かにアークを呼び止めた。


「お前が旅立つことは、分かっていた。予言の啓示は、お前の中に深く刻まれただろうからな。だが、覚えておくがいい。光を紡ぐ道は、決して楽な道ではない。多くの困難が、お前を待ち受けているだろう。」


エルトンの言葉は、重く響いた。アークは、覚悟を決めたつもりだったが、その重みに再び足がすくみそうになる。


「しかし、お前は一人ではない。古の言い伝えには、『光を紡ぐ者は、導きの星の下に集いし者たちと共に、闇を打ち払う』とある。必ず、お前を助け、共に歩む仲間が現れるであろう。それを見つけ出すのもまた、お前の使命だ。」


仲間。その言葉に、アークの心に微かな光が灯った。自分一人ではない。そう思うと、少しだけ心が軽くなる。


「そして、これを…。」


エルトンは、アークに古びた革袋を手渡した。中には、数枚の金貨と、小さな石が入っている。


「これは『導きの石』。お前が真に迷い、進むべき道を見失った時、この石がわずかながら道筋を示すだろう。」 


アークは革袋を受け取り、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、この街に、世界に平和を取り戻します。」


その言葉は、もはや他人事のようだった昨夜の独り言とは違い、アーク自身の固い決意から生まれたものだった。彼は振り返らず、エールシュタットの門をくぐり抜けた。

門を越えた先には、見知らぬ広大な世界が広がっていた。朝日が昇り、希望に満ちた光が大地を照らす。アークは、故郷を背に、新たな一歩を踏み出した。その足取りはまだ頼りないが、彼の胸には、大切なものを守るという、小さな、しかし確かな炎が灯っていた。

彼の目の前には、まだ見ぬ仲間との出会い、そして魔王との壮絶な戦いが待っている。


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