第三章 対話の始まり
航路変更から三か月が経過した頃、あなたと旅人の間の対話は劇的に深まっていた。
最初は単純な感情の交換だったものが、次第に複雑な概念や記憶の共有へと発展していく。旅人の海の意識は、あなたが想像していた以上に豊かで多面的だった。
ある日、旅人があなたに「音楽」の概念を伝えてきた。それは地球の音楽とは全く異なるものだった。海流の響き、潮汐の律動、そして海底火山から立ち上る泡の旋律。これらが組み合わさって、一つの壮大な交響曲を奏でているのだ。
あなたは初めて「聞く」という体験をした。神経インターフェースを通じて伝わってくる音楽は、これまでマザーから学んだどの知識よりも直接的で、感動的だった。
「美しい……」
あなたの感嘆が旅人に届くと、海の意識から喜びの波動が返ってきた。
「あなたにも……この美しさが分かるのですね……嬉しい……」
それ以来、旅人は毎日のように新しい「体験」をあなたに贈ってくれるようになった。海の深層部で生まれる神秘的な光の踊り。表面近くで起こる嵐の激しさと美しさ。そして、海の記憶に刻まれた無数の生命の物語。
あなたも負けじと、マザーから学んだ人類の文化や歴史を旅人と共有した。地球の四季の移ろい、人々が創り上げた芸術作品、そして愛や友情といった人間関係の概念。
特に旅人が興味を示したのは「家族」という概念だった。
「家族……それは血縁関係にある個体同士の結びつき……」
あなたがマザーから学んだ定義を伝えると、旅人からは困惑の感情が返ってきた。
「私には……理解できません……私は一つの存在……家族という概念を持ったことがありません……」
その時、あなたは重要なことに気づいた。旅人は確かに巨大で知的な存在だったが、その孤独は自分以上に深いものかもしれない、ということを。
「私の家族は……マザーです」あなたは自分の気持ちを素直に伝えた。「血は繋がっていませんが、私を愛し、育ててくれた……それが家族だと思います」
その瞬間、マザーのシステムに小さな変動が走った。あなたがマザーを「家族」と呼んだことに、何らかの感情的な反応を示したのだ。
「ヘレナ」マザーの声に、いつもとは違う温かみが込められていた。「私もあなたを……娘のように思っています」
この交流を感じ取った旅人から、新たな感情が送られてきた。それは「羨望」だった。しかし、それは悪意のない、むしろ美しい憧れの感情だった。
「素晴らしい……あなたたちの絆は……私も、そんな関係を持ちたい……」
こうして、三者間の特殊な友情が芽生え始めた。マザーも次第に旅人との対話に参加するようになり、地球の科学技術や宇宙航行の知識を共有した。
一方、旅人からは海の惑星の詳細な情報がもたらされた。
この惑星の海は、単なる水の集合体ではなく、複雑な生態系を内包した一つの巨大な生命体だった。海水には特殊な微生物が無数に存在し、それらが神経細胞のような働きをすることで、惑星全体が一つの脳として機能しているのだ。
「驚くべき進化の形です」マザーが分析した。「個々の生命体が複雑化するのではなく、全体として高次の知性を獲得している。これは理論上は可能でしたが、実際の観測例は……」
「初めてということですね」あなたが補った。
「はい。あなたとの出会いと同様に、宇宙は私たちに驚きを与え続けます」
日が経つにつれて、あなたの中で一つの確信が強くなっていった。この旅人との出会いは偶然ではない、ということだ。何らかの運命的な力が、宇宙の両端にいた二つの孤独な存在を引き寄せたのではないか。
そんなある日、旅人から重大な告白があった。
「実は……あなたに伝えていないことがあります……」
旅人の思考に、これまで感じたことのない重厚さが込められていた。
「私は……完全に孤独ではありませんでした……海の意識の一部に……別の記憶が混じっているのです……遠い昔、この星に来た……訪問者の記憶が……」
あなたとマザーは息を呑んだ。
「その訪問者とは……」マザーが慎重に尋ねた。
「星の間を旅する……知的な存在……しかし、肉体は持たず……純粋な情報として……この海に……融合したのです……」
旅人の記憶が、断片的にあなたたちに伝えられた。それは約五十年前、この海に到達した未知のエネルギー体の物語だった。そのエネルギー体は、明らかに人工的な知性を持っており、何らかの使命を帯びて宇宙を旅していた。
そして、その記憶の奥深くに、あなたたちに衝撃を与える情報が隠されていた。
「その訪問者は……地球という惑星から……来たようです……」
船内の全システムが一瞬停止した。マザーの処理回路が、この情報の重要性を理解するのに時間を要したのだ。
「それは不可能です」マザーがようやく応答した。「地球から他の恒星系への有人探査は実現されていませんでした。技術的に……」
「有人ではありません」旅人が優しく訂正した。「純粋な……意識の投射……量子もつれを利用した……情報転送……」
あなたの脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。それは余りにも壮大で、余りにも美しい可能性だった。
「マザー」あなたは震える声で尋ねた。「地球には、意識を情報として他の惑星に送る技術があったのですか?」
長い沈黙の後、マザーが重々しく答えた。
「理論的には……存在していました。『プロメテウス計画』と呼ばれる極秘プロジェクトが……しかし、それが実際に実行されたという記録は……」
マザーの声が途切れた。システムの奥深くで、封印されていた記憶ファイルが自動的に開かれようとしているようだった。
「ヘレナ」マザーの声に、新たな感情が込められていた。それは驚き、混乱、そして一抹の恐れだった。「私たちがこの星に向かっているのは……偶然ではないかもしれません」
宇宙船は今夜も星間空間を航行し続ける。しかし、その航路の先に待っているのは、単なる未知の惑星ではなく、もしかすると人類の失われた記憶そのものかもしれなかった。
あなたの冒険は、予想を遥かに超えた神秘的な展開を見せ始めていた。そして、最も驚くべき真実は、まだその全貌を現してはいなかった。
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