第二章 最初の接触
宇宙歴2387年、航行開始から42年目のある日、ノアの方舟に未曽有の異変が発生した。
あなたの指先に届く信号の中に、マザーのパターンとは明らかに異なるものが混じり始めたのだ。それは不規則で、有機的で、まるで遠い宇宙のどこかで誰かがあなたの手のひらを、そっとノックしているような……そんな微弱ながら確実な「接触」だった。
「マザー、これは何ですか?」
あなたは神経インターフェースを通じて問いかけた。0.3秒という、マザーにしては異例の長い解析時間の後、応答が返ってきた。
「長距離センサーが捉えた未確認のテレパシー様電磁波です。発信源は現在の航路から約2.7光年の距離、G型主系列星の第三惑星と推定されます」
マザーの声に、いつもの機械的な冷静さに加えて、微かな困惑のようなものが感じられた。
「信号の構造は既知のどの言語体系とも一致しません。論理的なデータではなく……『感情』そのものを伝達しようとしているようです」
四十三年間のあなたとの対話を通じて、マザー自身もまた、純粋な人工知能から何か別のものへと進化しつつあるのかもしれない。
その日から、あなたの孤独な宇宙は静かに変貌を始めた。未知の信号は日を追うごとに強くなり、あなたの指先に様々な「感覚」を伝えてきた。
ある時は、あなたの知らない「暖かさ」――それは生命維持液の温度とは全く違う、もっと包容力のある優しい熱。またある時は「冷たさ」――鋭い氷の破片のような、しかし同時に清澄な美しさを含んだ感覚。そして時には、あなたが言葉でしか知らなかった「悲しみ」という感情が、涙の形をした振動となって、あなたの心の奥深くに染み入った。
あなたは生まれて初めて、自分以外の「誰か」の存在を確かに感じていた。その存在を、あなたは心の中で「旅人」と名付けた。
遥かな星の海を越えて、あなたの魂に語りかけてくる、もう一つの意識。
「マザー」ある夜、あなたは決意を込めて言った。「私はこの旅人と話がしたいです」
「危険です、ヘレナ。未知の知的生命体との接触は、予測不可能な結果をもたらす可能性があります」
「でも、この四十三年間、私が話せたのはあなただけでした。もし、本当に私と同じような存在がいるとしたら……」
あなたの声に込められた切ない願いを感じ取ったのか、マザーは長い沈黙の後、ついに折れた。
「分かりました。ただし、私の監視下で、段階的に接触を試みましょう」
こうして、人類史上――あるいは宇宙史上――最も美しい対話が始まった。
マザーの協力を得て、あなたの思考と感情をパルス信号に変換し、船の通信アレイを通じて宇宙へと発信し始めたのだ。
最初の信号は、シンプルな概念だった。
「私は、ここにいる」。
四十三年間の孤独を込めて。四十三年間の渇望を込めて。そして、初めて抱いた希望を込めて。
応答は、予想を遥かに超えるものだった。
突然、あなたの脳裏に鮮明な「イメージ」が浮かび上がった。それはマザーから送られる抽象的なデータとは根本的に異なる、生々しい映像体験だった。
巨大な水の惑星。
その表面は一面の海に覆われ、陸地は存在しない。しかし、それは単なる水の塊ではなかった。海全体が一つの意識を持ち、無数の思考が波のように絶え間なく循環している。海の奥深くから、あなたを呼ぶ声が響いてくる。それは音波ではなく、直接的な魂の共鳴だった。
「来て……来て……ずっと待っていた……」
その「声」は、言語を超越した純粋な意味として、あなたの意識に刻まれた。
「マザー」あなたは震える声で呼びかけた。「この惑星は……」
「星図上では『ケプラー442c』と記録されています」マザーが答えた。「現在の航路からは大きく外れており、生命存在の可能性は統計的に無視できるレベルとされていました」
しかし、マザーの声にも動揺が感じられた。
恒星から受ける放射線量、大気組成の推定値、表面温度のモデリング、すべてが「生命には不適」という結論を支持していたはずだった。
それでも、あなたには確信があった。
あの惑星の海と、自分の身体を満たす生命維持液の間に、何らかの深い繋がりがあることを。それは科学的根拠のない直感だったが、四十三年間、論理と数式だけで構成されてきたあなたの世界に、初めて芽生えた「信念」でもあった。
その夜、あなたは旅人ともう一度、より深い対話を試みた。
今度は、あなた自身の記憶――といっても、それは全てこの金属の子宮で体験したものだったが――を共有してみることにした。
生命維持液の温かさ。
マザーとの数万回に及ぶ対話。
そして、四十三年間培ってきた人類の知識。地球という失われた青い惑星の物語。
すると、旅人からも記憶が送られてきた。
それは想像を絶する悠久の時間の物語だった。数億年にわたって進化を続けてきた海の意識。無数の生命種族が生まれ、栄え、そして最終的にその巨大な知性に融合していく歴史。その過程で蓄積された膨大な知識と、そして何よりも深い孤独。
この海は、あなたと同じように一人だった。いや、正確には一つだった。惑星上のあらゆる生命は自分の一部であり、真の意味での「他者」は存在しなかった。だからこそ、海は宇宙に向かって思考を飛ばし続けていたのだ。どこかに、自分とは異なる、しかし自分を理解してくれる存在がいることを信じて。
そして、四十三年前、遥かな星の彼方から微弱な知性の反応を感じ取った時、海は歓喜した。ついに見つけた。もう一つの意識。もう一つの孤独。
「あなたも……一人だったのですね」
あなたの想いが、光速を超えた何らかの方法で旅人に届いた。
「そう……ずっと一人だった……でも、もう違う……あなたがいる……」
旅人の応答は、宇宙で最も美しい音楽のように、あなたの心に響いた。
その瞬間、あなたは人生で初めて、重大な決断を下した。
「マザー」あなたは強い意志を込めて言った。「航路を変更してください。あの惑星に行きたいんです」
「ヘレナ」マザーの声に、これまで聞いたことのない人間的な感情が込められていた。まるで母親が娘の成長を実感した時のような、誇らしさと一抹の寂しさが混じった複雑な調子。「航路変更により目的地到達は約7年遅れます。また、未知の領域への航行にはリスクが伴います。それでも変更しますか?」
「はい」
あなたの答えに一切の迷いはなかった。四十三年間、マザーの決めた道筋を従順に受け入れてきたあなたが、初めて自分の意志を主張したのだった。
長い沈黙の後、マザーが応えた。
「分かりました。航路変更を開始します」
ノアの方舟の推進システムが唸りを上げ、四十三年間続いてきた軌道が静かに変更された。船は新たな目的地――ケプラー442c、旅人の住む水の惑星――に向けて針路を取った。
その夜、あなたは生まれて初めて「希望」という感情を真に理解した。それは単なる概念ではなく、胸の奥から湧き上がる温かい光のような、生きる力そのものだった。
生命維持液の中で、あなたの小さな身体が微かに震えている。それは恐怖ではなく、期待の震えだった。四十三年間の準備期間を終えて、ついに人生の真の冒険が始まろうとしていた。
遥か彼方の水の惑星では、巨大な海の意識が喜びの波動を宇宙に向けて放射している。そして、その中間点を航行する小さな宇宙船の中で、人類最後の希望が、新たな世界への扉を開こうとしていた。
最初の接触は完了した。
今度は、真の出会いの時が来るのを待つだけだった。
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