第11話
椿は政宗を送り出すと、成孝の部屋に行く時間になった。
扉を数回叩いて書斎に入ると成孝は相変わらず忙しそうにしていた。大きな机の上には書類が積み上がり、成孝の顔には疲れが見える。
(お忙しいのね……)
「ああ、待っていた。こちらへ」
「はい」
椿が側に行くと、成孝が椿を見ながら言った。
「ふむ。その服も問題ない。こちらが契約書だ。そこの西洋長椅子に座って目を通せ。疑問などは後でまとめて聞く」
「はい」
椿は契約書を受け取ると、西洋長椅子に座って内容を確認した。
――許嫁契約書
この契約書は百地 椿(以下甲という)と、東稔院 成孝(以下乙という)の間の契約である。
一、甲は、乙が正式な相手との婚姻まで、仮の許嫁として過ごすこと。
一、許嫁契約を解消時には、乙は甲にとって条件の良い嫁ぎ先を用意する。
一、仮の許嫁を全うした場合の報酬は伍百円とする。
一、如何なる場合も外部の者にこの契約のことを口外してはならない。
一、本来の業務とは別に許嫁手当月三十円を支給する。
以上――
(な、何……これ……!!)
椿は契約書を読んで思わず手が震えた。
「どうした? 気に入らないか?」
成孝が椿に声をかけると、椿が顔を上げた。
「いえ、条件が良すぎます!! 電話交換手は二十五円だとお聞きしました。それなのに、月に三十円も貰えて、なおかつ、嫁ぎ先も用意して頂いて、さら伍百円なんて大金を頂けるなんて!!」
成孝が眉を寄せながら言った。
「そうではない。椿が本来するはずだった仕事の三十円と月々の許嫁手当三十円だ」
椿は驚いて顔を上げた。
「え……つまり、月……六十円も? こんなにいいのでしょうか?」
「ああ。どうだ?」
椿は再び契約書を見た。
これだけあれば、実家に仕送りもできるし、汽車賃もすぐに返せるし、祝言のお祝だって十分にできる。
すでに昨日の段階でこの話を受けるしか選択肢のなかった椿にとってこれはかなりのいい条件だ。
椿がこんなにいい条件でいいのだろうか、と迷っていると成孝が口を開いた。
「私は椿と夫婦になることはない。ゆえに私に惚れても私は自分の事業のために君ではない別の条件のいい女性を選ぶ。それだけは絶対に忘れないでほしい」
成孝の言葉を聞いて、椿は疑問を口にした。
「成孝様に許嫁が居て、他の方と婚姻のお話など来るのですか?」
成孝はうんざりしたように言った。
「ああ。その辺りは問題ない。そんなことより、今は各夜会や食事会に行っても、娘を紹介されて全く事業の話や、人脈を広げることができない。正直、縁談などわずらしいのだ。だが椿が居てくれれば対外的には娘を紹介する者などいない。それに許嫁という関係なら、秘密裏に縁談の話を進める家は多い。夜会や食事会で接触を減らせるだけで、私にとっては大きな利益になる」
確かに"許嫁"のいる男性にみんなの前で『娘を嫁にどうですか?』などという者はいないだろう。つまり成孝は夜会での縁談の盾として、大金を支払って椿を雇うと言っているのだ。
「……私でいいのでしょうか?」
「椿は見目もいいし、立ち振る舞いも申し分ない。デパアトで、椿が隣にいたおかけであいさつだけで通り過ぎることが出来た。あんなに短い時間で解放されたのは初めてだった。さらにこの釣書の山……これらに丁寧に断る理由を考えて、お詫びの品を送ることを考えれば安いものだ。仕事の効率を上げるために椿に許嫁として側に居てほしい」
机の上に積み上がっていたのはお見合いの釣書だったようだ。
成孝のような顔で、財力もある男性を周りの人々は放っておかないのだろう。だが、その美しい顔も睡眠不足なのかクマが出来ていた。きっと酷く忙しいのだろう。
「わかりました。このお話お受けいたします」
椿は成孝との偽装許嫁の契約を結ぶことを受けた。
成孝は立ち上がると、椿の座っている西洋長椅子の前の机にペンを置いた。
「ここに名前を書いてくれ」
「はい」
椿は成孝の指を差したところに名前を書いた。
成孝は椿をまっすぐに見つめながら言った。
「今日から、君は私の許嫁だ」
「はい、よろしくお願いします」
「ああ。よろしく頼む」
こうして椿は成孝の偽装許嫁になったのだった。
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