ホロウ・レコード

武藤 大士

1.掃除人

 ――名を持たぬ者は、人にあらず。

 この街では、それが“常識”だ。

 名を持たぬ者に、人権なんてものはない。存在を証明することさえ許されない。

 けれど、名を持っていたとしても――記憶を失えば、結局は同じだ。

 人ではなくなり、やがて“それ”になる。

 すべてを喰らう存在――ホロウへと。

 それは誰もが知っている。けれど、誰もその言葉を口にしない。

 この世界では、それが掟であり、呪いでもあった。


「対象は見つけたか?」

「アニキ、あいつ必死に逃げてるッスよ」

「……38番、アイツを殺せ」

「ち、面倒くせーな」

 古びたスナイパーライフルを構え、スコープに捕らえる。

 息をふぅ~と吐き、トリガーを押し込む。

 大きい炸裂音と共に弾丸が発射、相手の片足を射抜く。

 その後薬莢がキンと甲高い音を立てて落ちる。

 男は倒れ苦痛にのた打ち回る。

 だが、強い意志でこの場から逃げようと全身を地面に擦りながらも前に前にと進んでいく。

 しかし、倒れた男の前に24番と38番が集まる。

「相棒、こいつ生きてるっスよ?」

「銃身が少し曲がってんだ、当てただけ凄いと思えよ」

「良いっすよね、手に入れたその記憶。まあ、記憶が合ってもこんな骨董品直せる訳じゃないッスからね」

 24番はヘラヘラ笑ってる。

「おめーらうるせーよ」

 後から遅れてきた男の名は13番。

 乱雑にかき上げられた灰色の髪に、無精髭が覆う顎。身を包むのは、返り血で染まったかのような深紅の革鎧と、夜の闇を切り取ったような漆黒のマント。

 鍛え上げられた胸元を惜しげもなく晒し、男は低く笑う。

 二人からは、アニキと呼ばれ親しまれている。

 

 「た、頼む……俺には家族がいるんだ……!」


 男の声が、濡れた路地裏にかすかに響く。

 上層から漏れ落ちる下水が、ひび割れたパイプを伝って滴り落ちていた。空気は重く、湿気で呼吸さえ鈍くなる。

 チカチカと点滅するネオンが、まるでこの街の鼓動みたいに明滅していた。

 今夜の対象は一人。

 リストに記された名前は――コーヴィン。

 男、既婚、子あり。ホロウ化の兆候、強。

 「……悪いな」

 13番の声は床に落ちる水滴みたいに震えていた。

 「一度リストに乗れば逃げ道はない。諦めて自分から穴に落ちてくれないか?」

 言葉に皮肉は混ざらない。命令にも慈悲はない。

 24番がにこやかに男の方へと近づいてくる。笑顔はどこか幼くて、恐ろしい。

 「いぃぃぃやだ、俺は最下層なんかに落ちたくねーよ!」

 路地の奥には、名ばかりの点検用のマンホール。

 そこから覗く暗闇が、口を開けてこちらを待っている。

 必死の声。

 だがその声は誰の心にも届かない――特に、番号で呼ばれる者たちの心には。

 「そうか、なら仕方ないな」

 13番の言葉を聴いた24番が男の髪を乱暴に掴む。

「グェ」

 痛みが顔を歪め、男は声にならない声を上げる。

 男は何かに掴もうと探すも見つからず、藁をも掴む思いで砂利を掴むが、泥と血の混じった粒を掴むだけ。

 男の声が震え、視線は床に沈む。

 「家族がいるんだって?。いいなぁ、俺ら家族ってもん知らねースよね」

 ニコニコの笑顔を見せている24番は、男の顔を地面に擦り付ける様に倒す。

 13番は瓦礫の山に腰掛け、男を見下していた。

 「アニキー、早く落としてバーでカードしましょうよ」

 24番の目には玩具を扱うような無邪気さがある。

 だがその手つきはためらいを含まない。

 13番は胸ポケットから誰が吸ったか分からない吸いかけの煙草を取り出し、指先で火を点ける。

 光が一瞬、顔を浮かび上がらせる。

 13番は煙草をゆっくりと吸い、煙を吐いた。

 煙が路地の冷たい空気に溶けていく——そこに混じるのは、甘くて切ない匂いだった。

「24番、余り痛めつけるな」

 13番はタバコをくわえたまま両手に手袋をつけると、ポケットに手を伸ばし、ガラスで出来た細く透明で、ガラスを衝撃から守るように銀色の枠で出来た筒を取り出す。

 筒に貼られたラベルは擦れて文字は読めないが、かつて“名前”が書かれていたであろう欠片が貼られている。

 カチ、と蓋を弾くと、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。

 「――記憶ってのは、いつだって甘くて、哀しく苦い香りだ。それが人間の、誰かの記憶なんだろうな」

 「メモリーボトル!。ま、待ってくれ、これ以上取り込んだらホロウになっちまう」

 男はガタガタと震えだした。

 「な、なぁ。どうしてこんなことをするんだ?」

 「コーヴィン君、君はリストに載っちまったんだ。だから俺ら掃除人が来ているんだ」

 「俺は名持ちだぞ、こんなことが許される訳がない」

 男は名持ちを主張するかのように大声で叫ぶ。

 「俺は名前すら忘れちまった。今は番号で呼ばれる。……お前はまだ“誰か”だ。羨ましいよ」

 13番は肩先で笑いを受け流す。

 羨望とも皮肉ともつかない、乾いた感情だ。

 彼の目はどこか遠くを見ている——過去の欠片、失われた記憶。

 番号が刻まれると、人は薄く、鮮烈なものを失っていく。

 「これが俺たちの仕事だ。ホロウになる前に芽を潰して街を守ってんだ、知ってるだろ?」

 「治安部隊があるだろ?、お前達たただの偽善者だ。だからこういう遊びは辞めよう、な?」

 男の声は最後の抵抗だ。

 しかし、この者たちに理屈を並べても、ここでは通じない。

 番号を与えられた者にとって仕事は法であり掟であり、最後に残るのは決断と実行だけだ。

 「ガタガタうるせースよ。お前はもうリストに乗っちまってるんスから。要はホロウと認定されたんス、手間が増えるから大人しく下層へ落ちようよ。こっちも暇じゃないんで、ね」

 24番が言い切ると、手に一瞬だけ力を強める。

 男の身体がよろめき、マンホールの縁へと寄せられていく。

 足を踏み外したその瞬間、コーヴィンは空気を噛むような叫びを上げた。

 「な、なぁちゃんと喋れてるだろ。いやだ、その手を離さないでくれ、俺はまだホロウじゃない人間なんだ!」

 でも、声は風に散る紙切れのように軽くなり、下層の闇が彼を受け入れを待っているかのように「コオーォォォ」と音鳴りを発している。

 足が宙に浮き、重力が無慈悲に牙をむく。

 24番が男を蹴り飛ばすように押し出し、身体は暗闇へと呑まれかける。

 24番は、襟元を掴んでいた手を離し、首元掴むと男の身体が、宙に浮かび上がった。

 耳に残ったのは、短く途切れた叫び。

 「かは、く、苦しい……」

 それが断末魔か、それともただの気息か。その表情を見ても13番の顔は微動だにしない。

 煙草の火が小さく揺れ、彼はふっと笑った。

 13番は煙草の煙をゆっくり吐き、相手の目を見据えると男のそばまで歩み寄った。

 手に持つメモリーボトルを男の前に掲げた。

 銀の筒の中で、液体が淡く光を放つ。

 「そいつの口を開けろ」

 その声に、男の顔が恐怖に歪む。

 「うゔぁ」

 必死に口を開けないよう抵抗する男の顎を、24番が押さえつける。歯ぎしりする音が路地に響く。

 13番は無表情のままボトルを握り、力を込めてガラスの筒を割った。中の液体が空気と触れ、白い蒸気を立てる。

 「……飲め。お前の未来だ」

 男は自分の未来が理解したのか、突然誰かの名前を叫んだ。

 「アリシアー、いつまでもアリシアこと大好きだよ。どうか幸せに生きてくれー」

 男は叫びながら首を振って拒絶する。

 「相棒、お前も抑えてくれっス、思った以上に力が強いっス」

 24番の隣に無言で立っていた38番が「ハァ、めんどくさい」と言いつつも両手で相手を押さえつける。

 13番は開いた口に向かって液体を無理やり流し込んでいく。

 喉を焼くような冷たさに、涙が滲む。

 呼吸が詰まり、男は咳き込みながらそれを飲み込むしかなかった。

 「この記憶には、下層の景色が詰まってるそうだ。どんな地獄か、先に見てみな」

 13番は淡々と告げると、24番は手を離す。

 男は一人棒立ちのように立ち尽くし、目線が定まらない。

 13番は何故か悲しい瞳で男を見下ろす。

 その時だった。男は突然大声を上げ始める。

 「うぁぁぁぁぁー、いやだー! こんな所に行きたくない!」

 「地獄の景色はどうッスか?」

 24番が嗤う。その笑みには、哀れみも迷いもない。

 この男が、これからどうなるのか――それを誰よりも理解しているからだ。

 意識を失いかけた男の身体が、ゆらりと傾く。

 足元のマンホールに足が滑る。

 それでも落ちまいと――本能だけが、身体を動かした。

 縁に指を掛け、必死にぶら下がる。

 爪が割れ、皮膚が裂けても、男は縁にすがりつく。

 その目には、もう理性の光など残っていない。

 ただ、生きたいという衝動だけが、彼をこの世に繋ぎ止めていた。

 「さて――ゴミは、ゴミ箱へ帰る時間だ」

 13番の合図を聞いた24番は、力任せに男の手を踏みつける。

 男の指の骨が軋み、血が滲む。

 「あ、あ、あ、や、やめっ――!」

 それでも容赦なく、24番の足が手を潰した。

 鈍い音が響き、血が鉄の縁を染める。

 次の瞬間、男の身体は宙を裂くように落ちていった。

 「ア、アリシア――!」

 言葉は途中で途切れ、闇に吸い込まれた。

 下層の空洞から、しばらく風の音だけが響く。

 13番は静かに見届けると、短く呟いた。

 「……良い旅を」

 38番は静かにマンホールの蓋を戻すと、カチリと音を立てて穴は閉じた。

 そこで何も起きていなかったかのような静寂が戻っていく。

 「――さーて、今日の掃除は完了っスね」

 24番が大きく伸びをしながら、両手を頭の上で組む。

 13番は煙草を口にくわえ、ゆっくりと息を吐く。白い煙が夜の空気に溶けていく。

 手袋を外すと、指が少し震えていた。

 寒さのせいだ、と自分に言い聞かせる。

 「“家族”か……」

 その言葉が頭から離れず、どうしようもない苦味の記憶が頭に残った。

 「アニキ、アイツどんな記憶を見たんですかね?38番、いや相棒も気になるだろ」

 24番が無邪気な声で尋ねるが、38番は「興味ない」と一蹴する。

 13番は短く吐息を漏らした。

 「さぁな。……知りたくもない」

 「そういや、今日の報酬で欲しがってた“名前”、手に入れられるんスよね?」

 24番が笑いながら質問をする。

 「ああ、この日を待ちに待ったよ」

 13番は笑い返す。その笑みには疲れと、ほんの僅かな希望が混じっていた。

 「アニキと別れるのは寂しいスね」

 「そう言ってくれるなよ」

 13番は顔を上げた。頭上の鉄の天井から、白いライトが冷たく降り注ぐ。

 「やっと名前が買える。……俺も少しは“人間”に戻れるかもな」

 彼はそう呟き、煙草を地面に落とす。

 火の点が一瞬だけ灯り、消える。

 「アニキ~腹減ったっス。アニキのおごりで飯食いに行きましょうよ」

 少しは離れた場所で38番の肩に手を回しながら13番に向かって声を掛ける24番。

 「おごりってなんだよ。バカ野郎が」

 彼の背中はゆっくりと歩き出した。

 掃除屋として番号を背負いながら、それでも“名前”を求めて。

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