緋色の境界線

黒羽ユイ

第1話 かごの中の鳥は

かごめかごめ、かごの中の鳥はいついつ出やる。

夜明けの晩に、鶴と亀がすべった。

後ろの正面、だあれ――


明け方の夢で、何を見たのか、はっきりしない。

どこかで誰かが泣いていたような気がするが、それが現実だったのか夢だったのか、自分の記憶なのか誰かのものなのか、それすら曖昧だ。


目が覚めても、頭の中はもやがかかったようで、思考が定まらない。

軽く頭を振ると、身体がわずかに揺れ、視界が歪む。

それでも私は、習慣のようにベッドの端に足を下ろし、床にそっと足をつけた。


一歩。

また一歩。

足元が少し揺れる。けれど、それは私の内側が波打っているだけ。世界は何も変わっていない。


洗面所の鏡には、どこか他人のような顔が映っていた。

白く、青ざめた肌。眠れなかったせいか、目の下にうっすらとクマが浮かんでいる。

充血した目が、まるで何かを見たがっているように赤く滲んでいた。


顔を洗っても、その虚ろな目は消えない。

ふと、昨日の夜のことが思い出される。


――千尋。


電話越しの声は、怒りに満ちていた。

「浮気よ、浮気してたの。最低でしょ。もう限界なの、離婚するって決めた」


語気を強める彼女の声に、私は何も言わずに耳を傾けていた。

千尋は感情のままに話し続け、涙声でそのまま眠ってしまった。


それが…昨夜の出来事だった。


…はず、だった。


けれど、頭のどこかが違和感を訴えていた。

何かが、引っかかっている。

何かが、合っていない。


でも、思い出せない。

――思い出したくないだけかもしれない。


「……はぁ」


深く、吐き出すようなため息。

指先に冷たい水をつけ、頬をぴしゃりと叩いた。


ここで立ち止まっていても、時間は待ってはくれない。

私は“普通の朝”を始めなければならない。

“姉”として、“社会人”として、“被害者遺族”として――。


この2年で、あまりにも多くの人を失った。

母と叔母が旅行先の火災で亡くなり、その帰りを待たずして祖父母が山中で凍死していた。

あまりにも皮肉な偶然。あまりにも不自然な連鎖。

それでも私は、泣かなかった。泣く理由がなかった。

ただ、淡々と整理をし、葬儀を済ませ、遺産相続の手続きを終え、日常を続けただけだ。


「運が悪いって、こういうことなのかもしれないね」


そう言って千尋は笑った。

その笑顔も、今ではもう見えない。


けれど、それでいい。

彼女は――もう何も感じなくていい。


今日も、日常の仮面を被る時間がやってくる。

私の中身は空洞で、心の底には静かで濁った湖のような冷たいものが沈んでいる。


でも、それを誰も知らない。

知る必要もない。

だって私は、**“優しい姉”**なのだから。


顔に微笑みの形を作り、鏡に向かって言葉をつぶやく。


「……一歩、踏み出して」


(第1話 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る