第2話 優しさの仮面
「……滝川さんが亡くなったって、本当なんですか?」
会社の休憩室でその言葉を聞いたとき、私は手にしていたマグカップを少しだけ傾けた。
中のコーヒーがわずかに揺れる。こぼれそうでこぼれない、絶妙な揺らぎ。
その揺れを見つめながら、私はゆっくりと視線を上げた。
「……ええ、昨夜遅くに、そう連絡がありました」
沙耶の声は落ち着いていた。
まるで身近な誰かではなく、どこかのニュースで知ったような口調だった。
けれどその静けさが、周囲の人々の涙や戸惑いを、より一層際立たせていた。
「信じられない……あんなに元気だったのに」
「事故って……あれ、階段から落ちたって本当?」
「えっ、美月さんって昨日会社休んでたよね?」
「じゃあ、家で……?」
ざわざわと、噂話と不安が広がっていく。
沙耶はそれを聞きながらも、表情を変えずに立っていた。
まるで何年も前から、その“悲しみ”に慣れてしまった人のように。
「神埼さん……大丈夫? 親しかったんですよね」
そう声をかけた同僚に、沙耶はわずかに微笑んだ。
「ありがとうございます。気にかけてくださって……。でも、私は平気です。
彼女の分まで、ちゃんと日々を生きなきゃって、思ってるので」
その言葉に、空気が少しだけ和らいだ。
彼女の優しさに、多くの人が救われたような顔をした。
けれど、ひとりだけ、その言葉を黙って見ている者がいた。
その日の午後。
加納凛は、人目を避けるように静かに沙耶を見つめていた。
悲しむでもなく、取り乱すでもなく、ただ穏やかに仕事をこなす姿。
(あの人、本当に悲しんでるのかな……?)
凛と美月は高校の頃からの親友だった。
大学からの付き合いだった沙耶よりも、ずっと深く、互いの裏も知っていた。
美月は表向きは優しい人間だった。
誰にでも笑顔を見せ、場を和ませ、誰とでも距離を詰めるのが上手かった。
でも――
「美月ってさ、本当に怖いところあるよね。人の弱みを握って、微笑みながら使ってくるっていうか」
そんなふうに、何度か凛は感じたことがあった。
本人に面と向かって言ったことはないけれど、少しずつ距離を取るようになっていた。
そんなとき、彼女がやたらと親しくしていたのが、神埼沙耶だった。
(あの子は不思議な子だった。影があって、でも……どこか冷たい)
思い出そうとすればするほど、沙耶の印象は「印象に残らない」ということそのものだった。
目立たず、感情を見せず、けれど絶妙なタイミングで人を助け、言葉をかける。
“空気のように溶け込む演技”。
凛は、沙耶が何かを隠しているような気がしてならなかった。
「加納さん、今日は来てくれてありがとう」
通夜の席で、沙耶が凛に向けてそう言ったとき、凛は内心身構えていた。
「……ご家族の方、連絡取れました?」
「はい。美月さんのお姉さんが、いろいろ手配してくださっています。
私はただ、最後に会った“友人”として、できることをしただけです」
“最後に会った”
その言葉が、棘のように引っかかった。
「昨日、会ってたんですか?」
「いえ……最後に会ったのは、三日前です。少し疲れているようでしたが、大丈夫だって……。
今思えば、もっと話を聞いてあげればよかったかもしれません」
沙耶は悲しそうに目を伏せた。
その仕草には一片の嘘もないように見える。けれど、凛の中の直感はざわめいていた。
“その言葉、用意してたみたいだね”
凛はそう喉元まで出かかったが、口にはしなかった。
代わりに、こう言った。
「美月、最近……何かに怯えてるみたいだった。
あなた、何か知らない?」
沙耶はきょとんとした顔をして、ほんの少し首をかしげた。
「……怯えてた? 美月さんが?」
「うん。……なんでもない。ごめんなさい、気にしないで」
「いえ、気になります。…でも、私は本当に知らないんです」
その瞬間、沙耶の目にわずかに揺らぎが見えた。
ほんの一瞬の、それは“焦り”のようにも、“演技の綻び”のようにも見えた。
(……この人は、何かを隠している)
確信ではない。ただの、感覚。
でも、凛の中にひとつの種が蒔かれた瞬間だった。
(第2話 了)
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