第23話 岐路

 授業が終わると世那はいろはのところへやって来た。


「いろはちゃ~ん。私古典赤点だった」

「赤点!?この時期に赤点って大丈夫!?」

「わかんないよぉ。もうダメかも」

「ダメってどういうこと!?まさか留年とか」

「補習受けなきゃいけないの~いろはちゃんのコネで桜羽先生になんとかしてもらってぇ~」

「それはいくらなんでも無理だよ。でも補習で済むならいいよ」

「うわぁーん!やだー!もう補習受けるの止めるー」

「それはもっとだめ!状況悪くなる一方だよ」

「だって~テストやるっていってたもん」

「桜羽先生のテストってノートとってれば平均点はとれるから」

「世那ノートあんまりとってない・・・」

「私のノートでよかったら貸すから。補習は受けてきて」


 いろははカバンからノートを出し世那に渡した。


「うぅ・・・ありがとう。いろはちゃん教室までついて来て。桜羽先生に上手く言って」

「・・・ごめん。私今日ちょっと用事があって」


 世那がいろはの古典のノートを数ページ見るととても綺麗に書かれていた。心細さを持ちつつ、いろはにもう一度礼を述べた。

 世那はノートを借りて一人で補習の教室へ向かった。


□□□


「先生ぇもうわかりません」

「ほら頑張って泉さん。ここ授業でもやったところだよ」

「うー・・・」


 クラスで古典の補習を受けるのは世那だけだった。日本語の羅列を読み進めるもなにを表しているのか読めば読むほどわからなくなっていく。赤点のテストの間違いをもう一度解いてみるが一向に進まない。机の上にうつ伏せになりながら悶えていた。


「ほら、ノート見ていいから自分で解いてみて」


 桜羽は黒板にヒントを書きながら世那の自主性を促した。いろはから借りたノートを出そうとすると担任から配られた進路用紙がカバンから落ちた。

 桜羽は足元に滑って来た用紙を手に取ると空欄のままだった。


「泉さんは進路決まってないの?」

「・・・う~ん」

「まだ悩み中かな」

「こないだまで行こうって思ってた大学あったけど・・・ちょっと考え直してるところ。そこでなにがしたいとかよく考えずに選んでたから」


 シャープペンを動かす度にクマのストラップが揺れていた。つい最近まではヒデと同じ大学を志望していた。高校の付属の大学だから推薦がもらえればまず落ちることはない。

 けれど、先日距離を置きたいと言われてから自分の進路について初めて疑問を持った。


「まだ時間はあるよ。興味のあることや自分が真剣になれるものと向き合ってみるのも大切な時間の使い方だよ」

「桜羽先生良いこというなぁ~」

「そう?これでも教師だからね。はい、あと二十分頑張って」


 桜羽は腕時計で時間を計りながら世那の背中を押した。

 世那がヒデと連絡を取らなくなって十日が過ぎようとしていた。すぐに泣きついてくるかと思ったが以外にも続いている。スマホを見てディスプレイになにも表記されていないことにまだ慣れなかった。

 バイト先の先輩とは一体どういう女性なのだろうか。夏休みからバイトをすると聞かされた。きっかけは一人暮らしを始めたことからだった。世那も何度か一人暮らしのアパートに訪れたことがある。

 去年まではお互い高校生で遊べる範囲も限られていた。ヒデが大学に入ってからは出掛ける場所が一気に広がった。免許も取り夏休みは県外の海に出かけた。高校生である自分とは違いヒデの世界だけがどんどん広がっていく。それでもヒデが自分を好きでいてくれることに変わりはないと世那は思っていた。出会ったころよりも強く深く好きになってくれている。それは自分も同じだった。世那が大学に入ったら同棲しようとつい最近まで話していた。


「はい。そこまで」

「えっもう?全然できてないです~」

「どれどれ」


 桜羽は世那のプリントを回収した。目を通すと空欄が目立った。桜羽は苦笑いをしながら眼鏡をかけ直し、来週も補習に受けるようにと世那に告げた。


「ノート綺麗だね。泉さんの?」

「これはいろはちゃんのです」

「小鳥遊さんか通りで。あれ、そういえば泉さんはまだノート提出してないけど」

「うん?そんなのありました?」

「言ったよね。ちゃんと黒板にも書いたよ」


 首をかしげる世那。記憶にないが桜羽が言ったというのならそうなんだろうと世那はカバンをからノートを取り出そうとした。けれど古典のノートが見当たらない。家に置いて来たのだろうか。


「あっそうだヒデ君の家だ」


 夏休みの宿題をする際にノートを見ていた。最終日にヒデの家へ持っていったことを思い出した。


「先生ノート来週でもいい?彼氏の家に置いて来ちゃった」

「来週?仕方ない。必ず来週の月曜日には提出してね。それから補習はまだ続くから忘れないこと」

「はーい」


 世那は教室から出て行こうとした。ドアを開けると夕焼けが廊下に差し込んでいる。その廊下は今も使っているのに懐かしく感じた。昼休みにヒデとよく話していた場所だからだろうか。付き合い出してからは毎日欠かさずに連絡を取り、卒業するまでは毎日一緒に帰った。ヒデが大学生になってからは時間があれば学校まで向かえに来てくれている。今はそれがない。連絡もなければ帰り道も休みの日も一人。隣に誰もいないというのはこんなにも一日が長く退屈なものだっただろうか。


「先生・・・」


 会いたいと言えばすぐに会いに来てくれた。多少のわがままもきいてくれた。

沈んでいく夕日を見ながらまるで遠い日を思い出しているような感覚に落ちていた。


「先生は彼女と別れるときどんな気持ちになる?」


 教室の中で世那の答案を見ていた桜羽が顔を上げた。丁度チャイムが鳴り始め生徒の下校を促している。教室に背を向けたまま立っている世那の小さな背中は夕焼けで橙色に染まっていた。長く伸びた髪を一つで結んでいる。


「・・・それは難しい質問だね」

「難しい?先生経験豊富そうだからいちいち覚えてないんだ」

「そうじゃないよ。自分の感情を言葉で表すのって難しいよね」

「国語の先生なのに?」

「痛いところつかれちゃったかな。でもだから古典を選んだのもあるよ。・・・うん。そうだな」


 桜羽は胸ポケットに入れていたボールペンとメモ用紙を取り出すとなにやら書き始めた。

 世那は軽い気持ちで問いかけただけだった。今の質問に答えなんて求めていない。そんなものはないような気さえした。桜羽は書き終えるとそのメモ用紙を切り取り世那に渡した。


「なに?これ」

「紀貫之が詠んだ歌だよ。授業ではやってないけど百人一首にもなってる有名な歌なんだ。とても古いけれど今も昔も人を思う気持ちは変わらないのかなって僕は思うよ」

「どういう意味なんですか?」


 世那がメモをみると和歌が書かれている。赤点をとってしまう世那にはその歌の意味が分からない。


「解釈は人それぞれだよ。よかったら泉さんが調べてみて」

「・・・えー先生それって宿題じゃないですか」

「そう?泉さんが珍しく質問してくれたからさ。さっ暗くならないうちに帰らないとね」


 世那はもう一度メモ用紙を見た。真直ぐ書かれた綺麗な文字。明日美鈴かいろはにでも聞いてみようと制服のポケットにしまった。


 帰宅途中、古典のノートを取りに行きたいとヒデに連絡をいれようとメッセージを打ち込んでいた。いつもならなにも考えずにすらすらと打てる文字が進まない。打ち込んでは消してを繰り返している。宛先にのるヒデの名前を見つめた。明日、家に行く前にまた連絡すればいい。そう決めて世那はホーム画面に戻った。ホーム画面はあの日のまま変えていない。今年の夏に海に遊びに行ったときに撮った写真だった。来年もまた来ようと約束した。その来年は自分はどこでなにをしているのか。漠然と広がる未来が突然見えなくなっていた。

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