第8話 海月

「部長~次の部長って決まってます?」

「う~ん。多分決まってるんじゃないかな。いつも合宿の最終日に言うのが恒例だから」

「やっぱり俺っすか!?」

「アンタが部長になったら美術部も終わりよ」

「なんでだよ!体育会系バリに盛り上げてやンよ!!なっ堀之内もついて来るだろ、この俺に!」

「俺は誰でもいいです」


 美術室のドアが開いた。そこには花束を抱える桜羽の姿があった。白のトルコキキョウに黄色や黄緑のカーネーションなどの花束だった。


「よかった、まだデッサン始めてないね」

「先生っ!なんすかその花!!」

「素敵。とても綺麗ね」

「あっ!さては、女からのプレゼントっすか!?」

「違うよ。相変わらずだな、桃山君は。校長先生が頂いたらしくて、よかったら美術部にと分けて下さったんだよ。小鳥遊さん花瓶持ってきてくれる?」

「はい」


 桜羽が持つ花束から微かに甘い花の香りが漂っている。いろはは準備室に置いてある大きめの花瓶を持ち、水を入れるため廊下に出た。蛇口をひねると勢いよく出てきた水が、ステンレスを叩き付けエプロンに跳ね返った。花瓶に溜まっていく水を見ながらため息が零れた。


「先輩」

「わっ!ビックリした。堀之内君か。どうしたの?」


 堀之内が少しダルそうに水道までやって来た。いろはは花瓶から溢れて来た水に気付き慌てて水を止めた。ため息が聞かれたのではないかと堀之内を見た。けれど堀之内はいつも通りだった。感情を表に出さないタイプなのでよくわからない。


「桃山先輩が俺がやれって。一年だから」

「桃山君が?いいよ。別にこれくらい」

「・・・」

「部活慣れた?」

「まぁ、それなりに」

「なにか困ったことあったら言ってね」


 いろはが両手で花瓶を持つと水が入った花瓶は重みを増していた。堀之内はそれを軽々と取り上げた。


「部長って大変なんですか?」

「えっ」

「さっきため息ついてたから」

「あっ・・・やっぱり見られてたか。さっきのは~ほら!受験で色々悩んでるから。部活は楽しいよ」

「そうスか」


 堀之内は適当な返事をするとさっさと教室へ戻っていく。

 いろはが少し遅れて教室に戻ると花瓶に活けられた花が教室の真ん中に置かれていた。花を囲むようにすでにデッサンが始まっている。普段あんなにうるさい桃山も部活が始まるとピタリと話さなくなるから不思議である。


「ありがとう、小鳥遊さん」


 部員の集中の妨げにならないように桜羽は小声で言った。いろは軽く頭を下げた。少し遠くに椅子を置き、デッサンを始めた。黒い鉛筆で真っ白な画用紙に描いていく。描き始めのこの瞬間はいつも緊張する。水に活けた花は花びらに水滴が付き、瑞々しく潤っている。太陽の光に照らされて美しさが増した。

 デッサンが終わり各自文化祭に向けての作品に取り掛かった。三年のいろはと白峰は卒業制作の完成まであと少しのところまできていた。引き続きにキャンバスと向かい合う。絵具を出そうと準備室に入ろうとした時だった。


「小鳥遊さん、ちょっといいかな?合宿についてなんだけど」

「はい」


 桜羽に呼ばれいろは廊下に出た。美術室から離れるように桜羽は廊下を歩いて行く。その後ろに着いて行くいろは。いつもなら二人きりで話せることに気持ちが弾んでいた。けれど今はできるだけ二人きりにはなりたくなかった。

 部活動の話となれば部長としてそうは言っていられない。桜羽は突き当りを曲がったところで静かに足を止めた。


「先生?」


 普段の伝達事項は教室を出たところで行う。少し離れたここまでやってくるのは初めてだった。桜羽を見上げると少し言い難そうな顔を見せた。


「小鳥遊さん昨日の帰り図書室に寄った?」


 その質問にいろは言葉につまった。鼓動を繰り返す胸の奥が苦しくなる。

桜羽はいろはの泳いだ視線に気づき、顔を隠すようにメガネをかけ直した。はぁと深く重い息を吐き出した。また吸い込んだ。珍しく眉間に皺が寄っている。


「やっぱりいたよね。後姿が似ていたからもしかしたらと思って」

「すみません・・・聞くつもりなかったんですけど」

「いや。君が謝ることはないよ・・・。ただ・・・」

「・・・ただ?」

「申し訳ないけど、このことは内密にしといてくれないか?相手のこともあるし」


 桜羽の表情にいろはは「ほら、やっぱり」と心の内でつぶやいた。自分だったら先生にこんな顔はさせない、と昨日の女子生徒を卑下した。その他大勢と理解しながらも、自分は違う。いろはは心の中でそう思った。好きだからこそ迷惑はかけない。


「もちろんです。誰にも言いませんから安心してください」

「そうか、ありがとう。見ていたのが小鳥遊さんで良かった」

「先生モテるから大変ですね」

「そんなことないよ」

「またまた、ご謙遜を」

「違うよ、本当に・・・そうじゃないよ」


 いろはの顔にはニッコリと張り付けた純朴な高校生の笑顔。それを崩さないように桜羽を見上げた。今日もシワひとつないシャツは清潔感があって、紺のネクタイの色は桜羽によく似合っている。口元を抑えながら苦い表情を引きずっている。


「一時の気の迷いかな。若い子にはあるだろ。その・・・なんていうか年上に憧れを感じる時っていうのが。でも『憧れ』と『好き』は違うからね」


 そう言うと桜羽はいつものように柔らかく微笑んだ。


「小鳥遊さん?」

「いえ、なんでもありません。教室に戻りますね」


 美術室へ戻っていくいろは。


 桜羽は一人になった空間でふぅ、と肩の力を抜いた。ネクタイで絞めつけられた胸元を少しだけ緩ませた。窓を開けると熱風が入ってくる。雲ひとつない遠くまで続く夏空を見つめた。

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