第3話
有田は歩き続けた。何のためであるのか分かりもせず、白装束と獣毛を避けながら。
木のように突っ立つものたちは、ゆらゆらと身体を揺らしたり、ぴたりと止まったり、まるで灯籠の明かりのようであった。しかし、明るく温かみのあるものは当然おらず、美しさは皆無で、儚さと虚しさしかなかった。
有田は、裸足を優しく包み込むような砂地に、足跡を残し続けていた。現世であれば、二県ほど越えたであろう距離だ。疲れも怪我もなく、足裏のこそばゆさに苛立つでも興がるでもなく、ただ無心で歩を進めた。
有田がぴたりと足を止めたのは、視界にとある老いたものを捉えた時だった。
見た目は腰を曲げた男の老体。深緑色の学習ノートを両手で持ち、座り込んでいた。
「ノート……」
有田がそう呟くと、老体は振り返って有田の顔をじっと見た。
目が窪み、額と目尻には細かな皺がたくさんある。そして、ほうれい線が口元にくっきりとした影を施しているように見えた。
「これは、あなたのですかい?」
老体は、気持ち程度生えた白髪を、手櫛で整えるようにしながら、有田にノートを差し出し尋ねた。
有田は老体の顔をじっと見つめていた。老体の目は、垂れ下がった瞼のせいでよく見えなかった。
「いいえ、違います」
「そうですか。文字が小さくて読めないもので、誰のものか分からんのですよ。読んでもらえますか?」
老体は、そう言って有田にノートを手渡した。
有田は徐にそのノートを受け取り、老体の隣に座った。
表紙の氏名記入欄には、楷書のようなはっきりとした字体で「田中栄吉」と書かれていた。ボールペンで書かれた字は、まるで講座のお手本のようであった。
「田中栄吉というのは、あなたですか?」
「ええ、そうです。お嬢さんは?」
「……有田萌です」
何気なく自己紹介をした二人だったが、その後会話をすることはなく、しばしの沈黙を生んだ。
田中は数メートル先の砂を見つめ、有田はノートをパラパラと捲り始めた。
ノートは、田中の日記帳だった。日付とその日の出来事が二、三行書かれ、それが数ページにわたっていた。
「田中さん、このノートはあなたのものです。日記が書かれています」
「そうでしたか。そう言えば、確かに毎日書いていましたね。思い出しました。できれば、いくらか読んでもらえませんか?」
田中は、見つめた砂から目を離すことなくそう言った。
有田は言われた通り、数行ピックアップして読み聞かせた。
年金暮らしをしていたこと、ご近所さんとグラウンドゴルフをしたこと、八十四歳になったこと、砂時計をひっくり返し、読書をするという日課があったこと。有田は、抑揚のない声で、一頻り読み進めた。
田中は地蔵のように動くことなく、聞いているのかいないのか分からない態度だった。
「今日は、『さよ』の二十三回忌だった」
有田がその一文を読み上げた時、田中は下げていた視線を、天を仰ぐように上げた。
「さよ……。ああ、そうか。妻に先立たれて、ひとりになったんだ。台所に立ったこともなかったから、お湯の沸かし方も知らず、てんやわんやで」
「はい、そう書いてあります」
「では、その続きを少し読んでいただけますかな?」
「はい。『二月十八日、近所の田辺さんの葬式へ行ってきた』と……」
「そうでした。ゴルフ仲間も一人、また一人と亡くなっていきましてね。自分だけが残り、誰も来なくなったので、ゴルフは辞めました。それから、やはりひとりで過ごしてきました」
田中は、ゆっくりと視線を足下へと落とした。
有田はそう語る田中を他所に、パラパラとページを捲り、一通り目を通した。ノートの丁度半分あたり、七月二十日の「冷房が壊れた。今夜は窓を開けて眠ろうと思う」という一文で終わっていた。
「不思議ですね。お嬢さんと話していたら、胸が痛いような気がしてきました。大病を患ったことはなかったのですが」
田中は、両手で白装束の襟元をぎゅっと握った。
有田は、やはり田中の言葉に反応することなく、ページを更に捲っていった。
真っさらなページが残り数ページとなり、有田はノートを閉じようと、ページを支えていた右手の親指を離した。すると、閉じていくノートの隙間から、さらりと流れ出てくるような、色のついた朗らかなページを見たような気がした。地味な黒の文字列で構成されたページを長いこと見ていた有田は違和感を覚え、再度開いてみた。
有田は、そのページをじっと見つめた後、田中を横目で見ながら言った。
「ひとりぼっちじゃなかったと思いますよ」
有田がそう言うと、田中は横目で見返した。
有田が田中にそのページを見せると、田中は眉間に皺を寄せるようにしながら、まじまじと見つめた。
色鉛筆で描かれた優しいタッチの絵。そこには、ブランコに乗る女の子、サッカーをする男の子など、公園で遊ぶ子どもたちが、数ページにわたり日記とは反対側から描かれていた。
更にページを捲っていくと、クレヨンで描かれた、壁画のようなアーティスティックな絵が現れ、それ以降は何も描かれていなかった。グレーを基調として描かれた似顔絵のようなその絵の上には、黒いクレヨンで「えいきちおじいちゃんへ」と殴り書きされていた。
「そうかそうか……。ゴルフを辞めた後、一人でできることがないか探していて、絵を始めたんです。近所の公園のベンチに座って描いていたら、子どもたちが集まってきまして。時々、みんなで描いたりもしました。これは、ある子が似顔絵を描いてあげると言ってくれましてね、頑張って描いてくれました。ああ、全て思い出しました」
そう言って田中は、ノートを大事そうに抱きしめた。
その時有田は、何だか胸を刺激されたような気がして、視線を胸のあたりにやった。
「さよにも見せたいなぁ……」
田中がそう呟くと、二人の目の前の砂が、もこもこと盛り上がり始めた。
田中は勢いよく立ち上がり、有田は座ったままその様子をじっと見つめていた。
「ズザアアァァ……」
天辺から砂をサラサラと落としながら、何やら四角い青銅の板のようなものが現れた。高さ五メートル、厚さ三十センチメートルほどのそれは、観音開きの扉のようで、太陽のような紋章が、二枚の戸に跨るように中央に彫られていた。
「驚いた……」
「田中栄吉……天国からお迎えがまいりました」
田中が呟いた瞬間、扉の後ろから案内役がひょっこりと現れた。
「ゴウンッ! ゴゴゴゴ……」
二人が案内役に視線を向けようとした瞬間、扉はゆっくりと開き始め、意識はそちらへと移された。
扉の向こうから青白い優しい光が溢れ、透明な階段らしきものが奥に見えた。
すると案内役は、扉の前へと移動し、浮遊しながら言った。
「私が案内いたします。どうぞ、続いてください」
「ああ、そうですか。目があまり良くないのですが、大丈夫で?」
「私がおります故、ご心配には及びません。それに、天国では見えるようになります」
「分かりました」
田中は、案内役とのやり取りを終えると、大事そうにノートを抱えたまま、曲がった腰で、のそりのそりと扉の方へと歩き出した。そして扉の前でぴたりと足を止め、振り返って有田の方を向いた。
「萌さん、ありがとう」
晴れやかな笑顔のおじいさんだった。この世界で能面のような顔しか見ていなかったからだろうか、有田は何だか違和感を覚えた気がした。
しかし何を思ったか、有田は無意識にお辞儀をしていた。
それを確認した田中は、案内役と光の中へ消えていき、扉は荘厳にゆっくりと閉じた。
砂に沈みゆく扉を目で追いながら、有田はぐわんぐわんという脳への刺激を再び感じていた。そして、とある記憶に色がついていく。
職員室の大きな机、その上に置かれた出席簿と学習ノート。ノートの表紙には「社会」「有田萌」と、ボールペンで書かれていた。
「ノート……。そう、わたしは高桑中学校に、別の中学校から赴任してきたんだ。前の中学校は、多忙でプライベートがなくて、しかも乱暴な生徒が多くて、教師を辞めようか悩んでいた。だから、高桑に移っても、何も変わらなかったら辞めようって本気で思ってた。でも、生徒たちから慕われて、それが嬉しくて、教師を続けようって思った……」
有田はひとり、ぶつぶつと呟いた。
その時の有田の目は、間国に辿り着いた時よりも、心なしか光が宿っているように見えた。
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