第2話

 有田は、白黒の地平線を眺めたまま、微動だにしなかった。時間という概念がなく、更に感情もないために、退屈という苦痛は全くなかった。

 人間だったもの、動物だったものが、有田の側を往来していた。それは何千、いや、何万という数だった。

 誰もが有田同様、他のものに興味関心を示さず、目的もなく歩いたり座ったり。暇という感覚はないのだろうが、暇潰しのような行動をとっていた。


 有田は唐突に、案内役の言葉を思い出した。ここでの脳は、生前の記憶を画像として残しているだけのフィルムのようなものである。無限に広がる砂を視界に入れながら、その言葉を聞いた時、記憶が断片的、紙片のように千切られているかのような残り方であることに気がついた。

 鮮明に記録された画像は、教壇から生徒たちを見下ろしているところだった。後ろの席で居眠りをしている生徒の姿をはっきりと覚えている。それから授業を終えて職員室へ戻ったあたりから、インク切れのプリンターのように半透明な像が写り、そこからバッサリと粗雑に引き裂かれているようだった。

 わたしはその時に倒れ、死んでしまったのだろうか。


 特殊な脳であるはずなのに、何故か記憶に意識を向けるようになっていた。そして、案内役が有田に対し、「異常はなさそうですけども」という言葉を吐いたことも、今更ながら思い出された。

 自分は、ここにいるものたちと異なり、一風変わった存在なのだろうか。

 しかしながら、そう深く考えたいという欲はなく、ただ思い出すだけという、死人だからこそできる無為な時間を送っていた。


 有田が、途方もない観望を続けていると、二十メートルほど先から、数体の流れに乗って中年男性らしきものが近づいてきた。

 同じ白装束を着た、がたいのいい男性らしきもの。しかしその装束に似つかわしくない、現場仕事の職人のような、黄色いヘルメットを被っていた。

 時折、この中年男性のように、この世界に不相応な格好のものが現れる。有田はこれまで何体も見てきた。

 フライパン、ゴルフのパター、ギターなどなど。ガウンの下にスーツを着ているものもいた。そしてちょうど、テニスボールを加えた犬を見たばかりでもあった。

 その格好で間国に着いたのか、どこかで拾ったのか何なのか。当然そんなことに反応することはなく、有田の興味をそそることはなかった光景なのだが、その中年男性は少し異なった。


 その中年男性が、体育座りをしている有田を横切った時、有田は脳にピシリと衝撃が走った感覚を覚えた。ぐわんぐわんと、何かを警告しているのか、それとも重要な何かの知らせなのか定かではないが、自然と中年男性を目で追い、振り返った。

 そして有田は、無意識のうちに言葉を発していた。

「……補修工事……こちらにサインをお願いします……」

 他のものたちが素通りする中、有田のその言葉に、中年男性だけがぴくりと反応し、足を止めた。そして、脳面のような顔で、有田の方を向いた。

「その言葉……」

 中年男性は、そう呟き、有田の顔を見つめたまま突っ立っていた。

 能面同士が向かい合い、しばしの沈黙が生まれた。いや、実際はどれほどの時間が経過したか定かではない。一瞬であったかもしれないし、数日であったかもしれない。時間という概念がない上、気まずいという感覚も失われているため、二人は果てしない一瞬の内に向かい合っていた。


「高桑中学校……そうか……思い出した」

 中年男性が、沈黙を破った。その表情は、生気を取り戻したように、能面の如く一点を見つめていた細く冷たい目を、くいっと持ち上げるように動かした。

 有田は、座って振り返ったまま、無表情で中年男性を見つめていたが、依然としてぐわんぐわんと脳を刺激されるような感覚は続いていた。

 記憶の紙片をパズルのように填めていくような、色をつけていくような、そんな快感のような不快感を覚えつつ、完成していく画像が自然と言葉を溢させた。

「あの日の午前、案内した……」

「……三木です」

 三木は、有田の言葉に続いた。

「わたしは……」

「有田さん……有田先生……」

 三木は有田を制すようにそう言い、その場で胡座をかいた。

 有田は、三木が名前を言い当てたことに対し無反応だった。しかし、胡座をかいた三木を見た後、瞬きをひとつして見せた。


「やっぱり、やめておこう」

 三木はそう言って立ち上がった。まばらに生えた細かな顎髭を数回掻きながら、その場から立ち去ろうとする三木を、有田は引き止めた。

「どうかされましたか?」

「そうか。お互いすでに疑問を持つ程度になっているのか。何でもありません。だけど、あなたと話すことは、いいことではないと思う」

「どういう意味でしょう?」

「逆に聞くけど、さっきの言葉、どういう意味だい?」

 有田は黙った。三木のヘルメットを見て発した言葉、何故あれが突然飛び出したのか、思い出すことができず、説明のしようがなかったからだ。

「分かりません」

「あの水の説明だけではそうだろうな。君は記憶を少し取り戻したんだ。俺たちは、この脳のつくりのせいで記憶が曖昧なんだよ。それが何かのきっかけで思い出していくんだ。で、恐らく記憶を取り戻して、人間として生活していた頃の自分を完全に思い出すと、天国か地獄へ行く」

 有田は、三木の言葉をすうっと受け流すように聞いていた。だからなんだというのだ、興味なんてない、そう態度で示しているかのようだった。

「何故か分からないけど、俺はここへ来てすぐに、ある程度の記憶を取り戻した。たぶん、充実した人生を送ってきたわけじゃないから、思い出す記憶が少ないからだと思うが。そして今、君と会って、恐らく死ぬ数日前の記憶を取り戻した。だから、死ぬ直前の記憶だけがない。そして、君と俺は会ったことがある。つまり、君と話したら俺は、ここにはいられない気がする……。あれを取り戻したくないから、本能的に君を避けようとしてる。だから、放っておいてくれ」


 有田は、ただ黙って聞いていた。目線を三木の目からヘルメットへと移し、二、三回瞬きをすると、三木の言葉を聞き終えたタイミングで、脳のぐわんぐわんとした刺激は治まり、ピシャリと稲妻が走った。その直後、無意識に言葉を発していた。

「高桑……屋上……」

 有田の言葉を聞くと、三木は瞼をぴくりと動かし、有田に背中を向けて走り出した。

 有田は、遠ざかる三木の背中を見えなくなるまで見つめた後、逆方向の地平線へと身体を向け、体育座りをし直した。

 案内役以外のものと話したのは、これが初めてだった。奇怪な場所で、同族と話せたとあれば、安心感が得られ、孤独感の喪失に対し喜びそうなものだが、当然そのような感覚はなく、何事もなかったかのように、無に目を向けるのであった。


「取り戻したくない……取り戻したくない……取り戻したくない……何でそんなことを言うの……」

 ただ地平線を眺めているだけだったはずが、有田は、いつからか三木の言葉を繰り返し呟いていた。呟く度、脳はぐわんぐわんと刺激され、筆で殴るような勢いで、ある画像が脳に描き出された。

 白いワイシャツ姿。首から下、胸のあたりまで映っており、何やらその白いワイシャツ姿の人に胸ぐらを掴まれているようだ。自分の背後には、ロッカーと、画鋲で留められた学年だより、黒板、水槽が見えた。恐らく教室の後ろだろう。

 その画像を映し出した後、有田は動揺するように、碁石のような真っ黒な目を左右に何度も倒し、そして閉じた。

「これは、わたし……? 取り戻したくない……何を……?」

 有田はそう言ってすうっと立ち上がり、三木が走っていった方向に目をやった。そしてゾンビのように、滅茶苦茶なテンポ感と歩幅で歩き出した。


 凹凸がなく、見晴らしの良い色気のない景色。気温も湿度もなく、汗をかくことも鳥肌がたつこともない。喉が乾くことも、息を切らすこともない。心地良い風と温和な陽の光に当たることも、川のせせらぎとキリッとした冷たい水に触れることもない。不快と快感が一切排除され、苦境に陥ることも恍惚の境地に至ることもない。そんな地獄とも天国とも言えるような中途半端な世界を、地獄にも天国にも行くことができない中途半端なものたちが、ただただ徘徊している。

 そんな世界で、有田は無意識に一歩を踏み出したのだった。

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