第8話「雨宿りリプライズ」

 6月28日、午後九時過ぎ。曙浜港を激しい雨が打ちつけていた。春の長雨とは違う、初夏の湿った豪雨。稲光が海面を一瞬だけ白く照らすと、直後に低く唸る雷鳴が続いた。

 旧倉庫の作業を終えたばかりの雄太と真理は、帰路に就こうとしていた。しかし激しい雨に足止めされ、急遽倉庫内に避難していた。

 「すごい降りね……」真理がため息交じりに呟いた。

 「すぐ弱まると思ったんですけど、読みが甘かったです」雄太が静かに言う。

 倉庫の天井を打つ雨音は容赦なく大きい。非常灯だけが薄暗く天井の梁をぼんやり照らし、コンクリートの床に水たまりが広がっていた。

 「このままだと、帰れないわね」真理は濡れた髪をかきあげながら、壁際の段ボール箱に腰を下ろした。

 「申し訳ありません。僕の作業が長引かなければ、もう少し早く出られたはずでした」

 「気にしなくていいわよ。あなたの“つい細部まで丁寧に”が、むしろこの倉庫を救ってるんだから」

 雷鳴の合間に、静かな空気が二人を包む。風が倉庫の隙間から湿気と共に吹き込んでくる。まるで少し前の春先に出会った“雨宿り”を思い起こさせるような静寂だった。

 ふと真理が笑った。

 「……なんだか、最初の日を思い出すわね」

 「え?」

 「雨の中で、古書店の前で出会ったあの日よ。あの時もあなたは、びしょ濡れの本を抱えて黙々と動いていたわ」

 「確かに……似たような状況ですね」

 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

 「まさか、あの日の出会いがこんな風に繋がっていくなんて思いもしなかったわ」

 「僕もです」

 倉庫内を打つ雨音が、一層強く響いた。照明のわずかな揺らぎに、真理はふと口を開いた。

 「……ねえ、雄太くん」

 「はい?」

 「ちょっと、あなたのことを聞いてもいい?」

 「……僕の?」

 「うん。あなた、努力するのが自然みたいに言うけど……それって、昔からなの?」

 その問いに、雄太は少しだけ視線を落とした。


 「……そうですね」

 雄太はしばし、雨音を聴くように黙っていた。

 「たぶん、昔から……努力するしかなかった、のかもしれません」

 真理は静かに彼の言葉を待つ。

 「僕、子どもの頃は体も弱かったんです。運動も苦手で、勉強も普通以下で……何をしても、誰よりも時間がかかりました。でも、諦めるのが怖かったんです」

 淡々と語られるその言葉の端々に、滲むような孤独感が漂う。

 「『自分にできることは、せめてコツコツやることしかない』って、自然に思うようになっていて……いつの間にか、それが習慣になってしまいました」

 「それで、今のあなたがあるのね」真理がゆっくりと言葉を挟む。「でも、そんな背景があったなんて……」

 「苦労というほどのことでもないんです。ただ……努力を重ねていると、周りの人が少しずつ声をかけてくれるようになりました。“すごいね”とか、“真面目だね”とか……。それが嬉しくて、続けてこられたんです」

 真理の胸がじんわりと熱くなっていく。

 (――この人は、そうやって“魔性”を育ててきたのね)

 「……でもね」真理はそっと続ける。「私は今のあなたの“魔性”は、もっと別のところにあると思うわ」

 「別の?」

 「そう。あなたが努力を“当たり前”にしてることじゃなくて、その努力で誰かを責めたりしないところよ。だから安心して頼れるの。あなたがそばにいると、自然と皆が『もっと頑張りたい』って思えるのよ」

 雄太は少し驚いた表情で真理を見つめた。そして、ゆっくりと微笑んだ。

 「……ありがとうございます。僕は、そう言ってもらえるのが、一番嬉しいです」

 また雷鳴が轟き、倉庫全体が小さく揺れた。だが二人の間には、不思議と穏やかな空気が漂っていた。

 ふと真理が、半ば冗談めかして言った。

 「……ねえ、こうやって二人きりで倉庫に閉じ込められてるなんて、ちょっとドラマみたいだと思わない?」

 「え?」と雄太がきょとんとする。

 「普通なら“急接近のチャンス!”とか、“危ない雰囲気!”とか、ありがちな展開になりそうじゃない?」

 「……ああ、なるほど。そういう“物語的展開”ですね」

 雄太は、あくまで淡々と返した。それがまた、真理の胸をくすぐる。

 (ほんとにこの人は……)


 「ほんとに、この状況でまったく動揺しないんだもの……」

 真理は半ば呆れたように笑うが、その胸の奥では静かに高鳴る鼓動を意識していた。

 (もし、目の前の彼が少しでも“近づいて”きたら、私は――)

 そんな想像が一瞬よぎる。だが、雄太は相変わらず穏やかに雨音に耳を傾けている。

 「……僕は、人との距離感がよくわからないんです」

 「え?」真理は一瞬意表を突かれた。

 「自分が“誰かに好かれている”とか、“そういう空気になっている”とか……わかりにくいんです。むしろ、怖くなることもあります」

 その言葉に、真理の心がまた揺れる。

 (――それは、魔性の男の“裏側”なのね)

 誰かを惹きつける力を持ちながら、それを自覚しないことで生まれる無垢さ。その無垢さがまた人を惹き込む。まるで終わりのない螺旋構造のように。

 「それでも、あなたは逃げない」真理は静かに言った。「誰かに頼られても、怖いからと距離を取ったり、責任を回避したりしない。むしろ、黙々と支え続ける」

 雄太は少し目を伏せ、考え込むように息を整えた。

 「……僕はただ、“必要とされる場所にいたい”だけなんです。そうしていると、自分も安心できるから」

 その言葉は、真理の胸に静かに沁み込んでいった。

 「……あなたは、ずっと孤独だったのね」

 ふと出たその言葉に、雄太は驚いたように目を見開いた。そして、ほんのわずかに微笑んだ。

 「たぶん、今は違います」

 「え?」

 「こうして、皆さんと一緒にいられるから。今は、孤独ではありません」

 それは、紛れもなく彼の本音だった。真理の胸がふわりと熱くなる。

 その瞬間、バチン、と突然非常灯が消えた。雷鳴が重なり、倉庫内は一瞬で暗闇に包まれた。

 「……停電?」真理が小さく息を飲む。

 雨音と雷鳴だけが響く暗闇の中で、ふと真理の肩に雄太の手がそっと触れた。

 「大丈夫です。しばらくしたら非常用発電が作動します」

 暗闇の中でも落ち着いた声。その温かな手の感触に、真理は思わず心臓が跳ね上がった。

 「……ああ、ほんとに、こういう時も冷静なんだから……」

 呟きながらも、真理はその手のぬくもりにしばらく身を委ねていた。


 暗闇の中で鼓動が静かに高鳴る。

 雨は相変わらず激しく倉庫の屋根を叩いている。ふと、非常用発電が唸りを上げ始め、薄暗い非常灯が再びぽつりと灯った。ほのかな光が、二人の距離の近さを照らし出した。

 真理は、自分の肩にまだ置かれている雄太の手を感じながら、そっと顔を上げた。

 「……ねえ、雄太くん」

 「はい?」

 「今、このまま私が“もう少しだけ寄りかかってもいい?”って言ったら……あなたはどうする?」

 その問いに、雄太はわずかに目を瞬いた。そして、しばし考えた末に静かに答えた。

 「……多分、黙って支えます。でも、無理はさせません」

 またしても、優しさに満ちた淡々とした答え。

 真理は、そんな彼の言葉に思わず吹き出した。

 「……ほんと、あなたって人は」

 緊張がほどけるように、自然と笑いがこぼれた。

 「そっか……そういうところも含めて、やっぱりあなたは“魔性”なのね」

 「……僕は、相変わらず自覚はありませんが」

 二人はまた顔を見合わせ、微笑んだ。

 ふいに、真理が拳を軽く上げた。

 「ほら、前と同じように」

 雄太もそれに気づき、穏やかに右手を上げた。

 拳と拳が、軽く触れ合う。

 “ハイタッチの代わりの拳タッチ”。ふたりだけのささやかな合図。

 「あの日も、こんなふうに拳を重ねたわね」

 「はい。あの時は……まだ、お互い手探りでした」

 「でも今は?」

 「今は……大切な仲間です」

 その真っ直ぐな言葉に、真理の胸がまた温かく満たされた。

 「……そうね。私も同じ」

 雨はまだ降り続いていたが、倉庫の中には静かな安堵が広がっていた。


 その後、ようやく雨脚が少し弱まってきたころ、倉庫の裏口から控えめに呼ぶ声が聞こえた。

 「雄太ー!真理ー!大丈夫ー!?」

 智の声だった。続けて知樹、優愛、梨絵の声も重なる。

 「こっちだ!」雄太が声を返す。

 急ぎ足で駆け寄ってきた仲間たちが扉を開けると、二人が無事でいるのを確認して安堵の表情を浮かべた。

 「良かった……無事で!」優愛が小さく胸を撫で下ろす。

 「停電になってるって聞いて、慌てて様子見に来たんだよ」智が息を整えながら言う。

 「全く、お前らこんな時に閉じ込められてるとはな」知樹が苦笑いする。

 「でもちょっとドラマチック!」梨絵が目を輝かせてはしゃぐ。

 「まさに“魔性の雨宿り・再演”ってところね」真理が茶目っ気たっぷりに言った。

 その言葉に、雄太がわずかに照れたように微笑む。

 「……ご心配おかけしました。でも、二人とも大丈夫です」

 「さすが“魔性の男”!」梨絵がピースサインを作った。

 再び6人に戻った安心感が、暗闇の倉庫に穏やかな空気を運んでいた。

 「このくらいのトラブルも、また思い出になるわね」真理がふと呟く。

 「そうだな……フェスティバルの準備も、このくらいの気合で乗り切るぞ!」知樹が気合を入れた。

 「うん!雨にも負けず風にも負けずだよ!」梨絵も元気いっぱいに笑った。

 「今夜はもう作業は無理だから、みんなで早く帰ろう」優愛が指示を出すと、全員が頷いた。

 帰り道、アーケードに差し掛かると、まだ濡れた石畳が街灯にキラキラと反射していた。ふと立ち止まった雄太が、ぽつりと呟いた。

 「……また少し、みんなとの距離が近づけた気がします」

 その言葉に、全員が自然と笑顔になる。

 「うん、間違いなくね」真理が柔らかく答えた。

 雨は上がり、星が顔を出し始めていた。


 その夜遅く、解散前に6人は再び古書店「汐風文庫」に立ち寄った。静まり返った店内に、ささやかな灯りがともる。

 「なんだか、初心に戻ったみたいね」優愛がふと呟いた。

 「最初にここで雨宿りして、自己紹介して……」智が懐かしそうに本棚を眺める。

 「あの日から、まだ2か月しか経ってないのが信じられないわ」真理も柔らかく笑った。

 「でも濃かったよね!毎日毎日、何かしら事件があったもん」梨絵がくすくす笑う。

 「倉庫崩落、怪文書、今日の豪雨……」知樹が指を折って数えた。

 「それでも、こうして皆で乗り越えてきたからこそ、今の私たちがあるのよ」優愛が静かにまとめる。

 雄太はそんな皆の言葉を、ゆっくり噛みしめるように聞いていた。

 「……皆さんと出会えて、本当に良かったです」

 また静かな感謝の言葉が、温かく空気を包む。

 「うん、私も!」梨絵が満面の笑みを浮かべる。

 「俺もだな。……なんだかんだ言って、こういう仲間って貴重だよ」知樹が素直に言った。

 「私もよ。あなたのおかげで、たくさんの新しい景色が見られてるわ」真理がそっと微笑む。

 「俺もだよ。……これからまだまだ楽しくなるからな」智が拳を軽く突き出す。

 雄太も、静かに拳を合わせた。

 「……はい。これからも、よろしくお願いします」

 窓の外では、雲がすっかり晴れ上がり、満天の星空が広がっていた。

 レター・フェスティバルまで、あと1か月半。静かに、しかし確かに、6人の物語は次の幕へと進もうとしていた――。


第8話 完

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