レゾナントノイズ

七理チアキ

前章 1999-2002

第1話 : 1999 Spring / Blink

【七理ハルミ】


 春が嫌いだ。

 春はいつも変化を強制し、いつだって僕を浮き足立たせる。指先が微かに震えているのを、僕は左手でそっと押さえた。


 一九九九年、四月。

 新しい制服の折り目はまだ硬く、糊の匂いが鼻腔をくすぐる。


 杉並区立高円寺北中学校、一年三組。

 蛍光灯の白い光が反射する真新しい教室の床、その上に等間隔に並べられた机と椅子は、これから始まる序列化された管理空間の象徴のように見えた。


 僕の席は廊下側から三列目、最後尾。窓の外には、薄曇りの空の下、まだ硬いつぼみをつけたままの桜の枝が風に揺れている。

 まるで、僕自身のようだ、と自嘲が胸をよぎる。


 新しい環境。

 それは常に、僕にとって期待よりも不安を大きく運んでくるシステムだった。周囲に溶け込めるだろうか。おかしな奴だと思われないだろうか。


 誰かの何気ない視線が、値踏みするような光を帯びて背中に突き刺さる。息が浅くなるのを感じた。クラスメイトの笑い声が、すべて自分の悪口のように聞こえてくる。胃のあたりがじわりと冷たくなっていく。ああ、まただ。こんな自分が、心底嫌になる。


 担任の、いかにも「先生」然とした教師が、自己紹介を促す。

 出席番号順。僕はちょうど真ん中のあたりだったから、それまでの時間を、他の生徒たちの言葉の断片を拾い集めながら、己の内でシミュレーションを繰り返すことに費やした。


 当たり障りのないこと。


 無難なこと。


 しかし、何か一つくらいは、自分という個体を識別させる記号を提示しなければ、その他大勢という名のノイズに埋没してしまう。


「――楠木くすのきナミ」


 名前を呼ばれ、僕の斜め右前の席の女子生徒が立ち上がった。


 楠木ナミ。


 その名前の響きが、なぜか妙に鼓膜に残った。彼女は、細身のシルエットで、肩にかかるかかからないかくらいの、黒く切り揃えられた髪をしていた。色素の薄そうな白い肌。伏せられた長い睫毛。感情の起伏を一切感じさせない、彫像のような横顔。


「楠木ナミです」


 鈴を振るような、と形容するにはあまりに冷たく、硬質で、しかし澄んだ声だった。


 それだけ。


 趣味も、好きなものも、抱負も、何一つとして語らない。ただ事実としての記名行為を終えると、彼女は再び彫像のように着席した。


 教室内に、ほんの一瞬、戸惑いとも異なる、奇妙な静寂が漂った気がした。


 孤高。

 その言葉が、僕の脳裏を過った。彼女は、自ら周囲との間に透明な壁を構築している。

 その壁は、僕の周囲への恐れからくる拒絶とは異質の、もっと能動的で、侵し難い何かのように感じられた。


 そして、僕の番が来た。

 心臓が、肋骨の内側で不規則なリズムを刻み始める。


「し、七理しちりハルミです。えっと、音楽を聴くのが好きです。よろしくお願いします」


 声が上擦った。

 準備していた言葉の半分も出てこない。

 音楽が好き。それは事実だ。本当は好きなバンドについて語りたかった。誰かと共有したかった。

 Coaltarコールター ofオブ the Deepersディーパーズの轟音ギターノイズの洪水も、人間椅子の禍々しいリフも、筋肉少女帯の文学的でアングラな絶叫も、僕の内のよどんだ感情を浄化してくれる。音楽を聴くというのはそういう聖なる儀式だった。

 だが、それをこの場でどう説明すればいい?

 オルタナティブロック、ヘヴィメタル、シューゲイザー。

 そんな単語を口にしたところで、この真新しい教室の空気は、白けた沈黙で応えるだけだろう。結果、僕はまた、無難という名のノイズに紛れ込むことを選んでしまった。そして失敗した。


 自己紹介が終わり、最初のホームルームが散漫な雰囲気のまま進行していく。


 僕は、さきほどの楠木のことを考えていた。

 彼女のあの態度は、ある種の確信に満ちていた。

 僕のような、他者の評価に怯える脆弱さとは無縁の、鋼のような自己。羨望に近い感情が、胸の奥で小さく疼いた。


 最初の休み時間。

 教室はまだ、互いの距離感を測りかねているような、ぎこちないざわめきに包まれていた。


 僕は、いつも家でヘッドフォンをかけて外界を遮断しているように、心のシャッターを下ろそうとしていた。


 そんな時だった。


 視界の端に、楠木ナミの姿が入った。

 彼女は、自分の席で、他の誰とも言葉を交わすことなく、一冊の雑誌を広げていた。その表紙には、黒を基調とした衣装に身を包み、過剰なまでに作り込まれたメイクをしたバンドメンバーたちが、挑発的な視線を投げかけていた。

 ヴィジュアル系、と呼ばれるジャンルの音楽雑誌だろう。僕の聴く音楽とは方向性が違う。


 しかし、音楽。

 それは、僕と彼女を繋ぐ、唯一の細い糸になるかもしれない。


 衝動だった。

 後先を考える余裕など、僕の処理能力の低い脳には備わっていない。

 気づけば僕は立ち上がり、彼女の席へと歩み寄っていた。


「あ、あの……楠木さん」


 彼女はゆっくりと雑誌から顔を上げた。

 射抜くような、という表現がこれほど似合う瞳を、僕は初めて見たかもしれない。

 感情の読めない、黒曜石のような瞳だった。


「何?」


 短く、抑揚のない声。


「えっと、その雑誌……音楽、好きなの?」


 我ながら、あまりに稚拙な問いかけだった。

 音楽雑誌を読んでいる人間に「音楽が好きか」と問う愚かさ。顔から火が出る、という慣用句を、僕は身をもって体験していた。


「別に」


 彼女はそう一言だけ言うと、再び視線を雑誌に落とした。


 明確な拒絶。

 僕の足元から、床が崩れ落ちていくような感覚。何か、何か言わなければ。このままでは、僕はただの馴れ馴れしい、気持ちの悪い奴として彼女の記憶に刻まれてしまう。


「僕も、音楽好きなんだ。まあ、こういうのじゃなくて、もっとこう、激しいのとか……」


 しどろもどろに言葉を紡ぐ。

 Coaltar of the Deepersのノイズの壁。人間椅子のドゥーミーな重低音。筋肉少女帯の不条理な歌詞。

 それらが僕の頭の中を駆け巡るが、言葉にはならない。

 ただ、焦燥感だけが空回りする。


 楠木ナミは、雑誌から顔を上げることなく、ぴしゃりと言った。


「だから、何」


 その声は、さきほどよりもさらに温度を一度下げていた。僕の胸に、鋭利な氷片が突き刺さる。

 彼女の周囲に張られた透明な壁は、僕の矮小な勇気など容易く跳ね返す。


 僕は、何も言えなくなった。

 逃げるように自席に戻りながら、全身の血が逆流するような屈辱と、底なしの自己嫌悪に沈んでいくのを感じた。

 教室のざわめきが、やけに遠くに聞こえた。


 やはり僕は駄目なのだ。

 誰ともうまくやれない。

 楠木ナミ。彼女のあの孤高な美しさは、僕のような人間が触れてはいけない、聖域のようなものだったのかもしれない。


 最初の接触は、最悪の形で終わった。

 僕の胸の中で、何かが瞬き、そして消えた。そんな気がした。


 *


 すべてが終わって、

 ただの思い出になった今だから、

 思うことがある。

 もし、あの分かれ道まで戻れたなら、

 きっと違う未来があっただろうかと。

 一瞬の躊躇いが、永遠の距離になった気がして。

 あなたは、

 あのときに戻れたら、

 なにを選びますか?

 ——もう一度、あの甘さと痛みを、違う形でたどりますか?



──────



【楠木ナミ】


 うるさい。

 新しい教室の、新しい机の、新しい椅子の、何もかもが薄っぺらくて、私を苛立たせた。


 なんでこんなところに座って、作り笑顔の教師の話を聞かなくちゃいけないんだろう。


 母と父の、昨夜のヒステリックな怒鳴り声が、まだ耳の奥で低く反響している。

 あの家も、この教室も、私の居場所なんかじゃない。


 自己紹介。

 馬鹿馬鹿しい。何を言えっていうんだ。


「楠木ナミです」


 それ以上でも以下でもない。私の名前。

 それ以外に、こいつらにくれてやる情報なんか一つもない。どうせ誰も、本当の私なんか理解しようともしないくせに。


「し、七理ハルミです。えっと、音楽を聴くのが好きです。よろしくお願いします」


 私の斜め後ろの席の男子。

 もごもごとした、自信なさげな自己紹介。

 音楽が好き?ふうん。だから何だっていうんだ。

 ああいう、自分に酔ってるくせに中身が空っぽな感じの奴、一番むかつく。

 視界の端で、そいつが緊張で指をこわばらせているのが見えて、余計にイライラした。

 しっかりしろよ、男だろ。


 休み時間。

 私は持ってきた音楽雑誌を開いた。

 Dirディル enアン greyグレイの最新インタビューが載っている。今、この雑誌だけが、私と、私が本当にいたい世界を繋いでくれる。


 この教室の、馴れ合いじみた空気から私を隔離してくれる防護壁。


 押し入れの中の薄暗闇で、体育座りしながらイヤフォンで聴く、あの轟音と絶叫だけが、本当の私を解放して、あの息苦しい家から連れ出してくれる。私の、唯一の救い。


「あ、あの……楠木さん」


 不意に声をかけられて、顔を上げた。


 七理ハルミ。


 さっきの、自信なさげな男子。何なんだ、こいつ。馴れ馴れしい。


「何?」


 用件だけ言え。私に構うな。


「えっと、その雑誌……音楽、好きなの?」


 見ればわかることを、なぜ訊くのか。

 その無神経さが、黒板を爪でひっかく音のように鼓膜にこびりつく。

 当たり障りのない言葉で構築された馴れ合いの梯子。

 それをかけてこられるのが、一番嫌いだ。


「別に」


 梯子を、足で蹴り落とすように、短く答えた。


 なのに、そいつはまだ何か言おうとしている。


 粘着質。


「僕も、音楽好きなんだ。まあ、こういうのじゃなくて、もっとこう、激しいのとか……」


 知るかよ。あんたの音楽の趣味なんか、どうでもいい。

 なんで私が、あんたのそういう話を聞いてやらなきゃいけないわけ?

 私の時間を無駄にするな。


「だから、何」


 少しだけ、声のトーンが低くなった自覚はあった。

 苛立ちが、言葉の端々に滲み出てしまう。

 それでようやく、そいつは黙って自分の席に戻っていった。


 その時の、怯えたような、迷子の犬みたいな目が、ほんの少しだけ、ほんのコンマ数秒だけ、私の意識の隅に引っかかった。まるで、消える直前の電球の瞬きみたいに。


 いや、そんなことない。


 ああいう手合いは、最初にはっきり拒絶しておかないと、後々もっと面倒くさいことになる。関わるだけ時間の無駄だ。


 私は再び雑誌に集中しようとした。

 けれど、さっきの七理ハルミの、あの怯えた目が、ページの上にチラチラと重なって、なかなか文字が頭に入ってこなかった。胸糞悪い。


 早く終わらないかな、この退屈な一日。

 そして、早く消えてなくならないかな、この世界。


 *


 すべてが終わって、

 あの関係に名前をつけるなら、

 なんて呼べばいいのだろう。

 以上と、未満の、そのあいだ。

 その曖昧さが心地よくて、

 そして、すこしだけ苦かった。

 どうしても、言葉にすることができなくても、

 だとしても、手を伸ばすべきだったのだろうか。

 あなたは、

 あのときに戻れたら、

 なにを選びますか?

 ——あの曖昧さを、壊してみますか?それとも。

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