第3章 君がくれた座標




学校に行かない日々は、とても退屈だった。

何もしていないのに、1日はやけに長くて、

誰かと関わらないだけで、時間の流れがまるで別の惑星みたいに感じた。


朝になっても布団から出ず、

カーテンの隙間から差す光で、なんとなく時間を知る。

昼、母親の足音。夕方、テレビの音。

自分以外の世界は、いつも通り進んでいるのに、

自分だけが取り残されたようだった。


その長い時間の中で、

「この日々はもう取り戻せないものなのかもしれない」

そんな不安が、少しずつ胸に重く沈んでいった。



行こうと思って制服に袖を通した朝もあった。

でも、玄関のドアノブに触れた瞬間、足が動かなくなった。

この先にある風景が、まるで自分を拒んでいるような気がしたから。


そうしてまた一日が終わり、

気がつけば、誰かと目を合わせた記憶さえ薄れていた。



そんなある日。

机の上に、一通の手紙が置かれていた。


差出人は、あの子だった。

北の小学校からずっと一緒だった、仲の良かった友達。

誰よりも自然に笑い合えて、どんな時も隣にいてくれた子だった。


封筒に書かれた自分の名前が、なぜか遠くの星座みたいに見えた。

封を開けた指先が少しだけ震えた。

中から出てきた手紙には、飾らない言葉が並んでいた。



「〇〇が学校にいないの、すごく変な感じ」

「みんな普通に過ごしてるけど、私はすごくさみしい」

「怒ってるわけでも、心配してるわけでもなくて、

ただ、“そこにいない”ことが悲しいだけだった」



誰にも触れられなかった“不在の自分”に、

まっすぐに手を伸ばしてくれた言葉だった。


それは慰めでも、励ましでもなかった。

ただ、悲しいと書かれていた。


それがとても、嬉しかった。



それから数日後、その子が家まで迎えに来てくれた。

「一緒に行こう」って、笑いながら手を伸ばしてきた。

その笑顔に返事はできなかったけれど、手は自然と動いた。

手をつないだまま、少し歩いて、学校に向かった。


怖かった。すごく、怖かった。

けれど、その手のぬくもりが、地面に足を戻してくれる気がした。


教室に入ったとき、空気が一瞬止まった気がした。

でも、その子は何も言わず、

いつものように席に座って、ノートを開いた。


それだけで、世界のリズムが、少しだけ自分に近づいた気がした。



あの手紙には、返事を書かなかった。

便箋の前で何度もペンを持って、結局、何も書けなかった。

代わりに、自分の言葉でお礼を言おうと決めた。


けれど、不思議とそんな機会は来なかった。

だから今、こうして書いている。



「あのとき、君がいてくれてよかった」

「手をつないでくれてありがとう」

「“いてくれないと悲しい”って言ってくれて、本当にうれしかった」



孤独がすべて消えたわけじゃない。

でも、あのときから――

「自分はここにいてもいい」と、ほんの少し思えるようになった。



この地球という舟の中で、

誰もが無数の小舟に乗って旅をしている。

顔も名前も知らない人ばかりの中、

“名前を呼べる誰か”が、確かに自分を見てくれていた。


それが、最初の共感だったのかもしれない。



あれから、もう長いことあの子には会っていない。

会いたいと思う日もあるけれど、会えない。


きっとあの子にも、あの子の旅路があるんだろう。

それぞれの舟で、それぞれの夜を越えている。


いつかまた、どこかで交差できたらいいな。

名前を呼び合える距離で、

お互いの旅の話ができる日が、来るといい。

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