小さな灯り

傷の痛みよりも、心のざわつきのほうが強かった。


 グレイスが私の腕を消毒しながら、静かに包帯を用意している。その隣では、フィオが気まずそうに椅子に座っていた。俯いたまま、こちらを見ようとしない。けれど、時折ちらりと視線が向くのを、私は知っていた。


 「……大丈夫よ。そんなに心配しないで」


 私はできるだけ穏やかな声で言った。フィオの肩が少しだけ動いた。


 「フィオ、あなたは怪我してない? どこか痛むところは……」


 問いかけると、彼女はほんの一瞬だけ迷い、そっと首を横に振った。


 それだけで、私は胸を撫でおろす。


 「よかった……無事でいてくれて、ありがとう」


 グレイスが私の手首を持ち上げ、丁寧に包帯を巻いていく。傷は思ったよりも深く、熱を帯びていたが、それよりも気がかりなことがあった。


 「——老馬のこと、ですが」


 グレイスが口を開いた。


 「やはり、事故とはいえ……」


 「処分はしないわ」


 私は、すぐに答えた。迷いのない声で。


 「たしかに驚かせてしまったかもしれない。でも、あの子は何も悪くない。ただ、怖かっただけ。それだけよ」


 自分でも気づかぬうちに、言葉に熱がこもっていた。フィオがその場にいることもあり、私は一瞬、言葉を選び直す。


 「……私が、悲しいの。あの子を失うようなことがあったら。だから、お願い。あの馬に何もさせないで」


 グレイスはしばらく黙って私の顔を見つめ、それから静かにうなずいた。


 「承知しました。当主様のお気持ちとして、お世話係にもそのように伝えておきます」


 「ありがとう、グレイス」


 包帯を巻き終えた手をそっと降ろしながら、私はちらりとフィオに目をやった。


 彼女は、まだ私の顔を見ようとしない。ただ、その頬には、ほんのわずかに戸惑いと安堵が混ざっているように見えた。


 ——この子はまだ、何も信じていない。それでも。


 私は静かに、彼女の名を呼んだ。


 「フィオ、怖かったでしょう?」


グレイスが薬箱を片づけに席を外したあとも、私は椅子に座ったまま、フィオの方を振り返った。


 「……あなたが無事でよかった」


 そう言ったときだった。


 フィオの瞳が、不意に揺れた。

 彼女は低く、震える声で言った。


 「……どうして、そんなに自分のことばっかり後回しにするの?」


 私は目を瞬かせる。思ってもみなかった言葉だった。


 「血、出てたのに。足、ちゃんと動いてなかったのに。……なのに、なんで、私と、あの馬の心配ばっかりしてるの……?」


 彼女の声は、抑えているのが分かるほど震えていた。

 フィオの肩が小さく揺れた。視線はまだ伏せられたままだが、唇がわずかに動く。

 何かを言おうとして、飲み込んで、また言いかけて——そんなふうに言葉を探しているようだった。


 小さな手が膝の上でぎゅっと握りしめられる。その指先がわずかに震えていた。

 目元も唇も、まるで感情に置いていかれるように揺れていて、私はただ、彼女が言葉を発するのを待った。


「……わかんないの。なんで、こんなに苦しくなるのか……」


 「あなたが怪我したの見て……すごく、すごく嫌だった。怖かったの」


 震える声でそう言ったフィオに、私は一瞬、言葉を失った。

 けれど、目を細めるようにして微笑んだ。


 「……もしかして、心配してくれたの?」


 自分でも驚くほど、声が柔らかくなっていた。傷の痛みも、老馬のことも、一瞬だけ遠くなった気がした。


フィオが自分のことを気にかけてくれた——その可能性だけで、胸の奥にぽつんと小さな灯りが灯るようだった。


 「……心配?」


 その響きを口の中で、ゆっくりと転がすように反芻した。


 すると、近くで控えていたグレイスが静かに口を開いた。


 「誰かの無事を願って、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになることさ。優しいあんたには、ちゃんとある心だよ」


 フィオはその言葉を飲み込むように静かに瞬き、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。

私は、そっと微笑みながら目を伏せた。


フィオは膝の上で組んだ手を見つめたまま、唇をかすかに震わせた。


 「……私は、優しくなんか、ない……」


 ぽつりと落とされたその声は、小さくて、すぐに空気に溶けてしまいそうだった。


 「優しいのは……リディア、さまでしょう?」


 そう続けたとき、フィオの声には、少しだけ熱が混じっていた。


 「だって、あのときも……迷いなく、飛び込んできて……怪我してるのに、ずっと私のこと、気にしてて……馬のことまで……」


 言葉を繋ぎながら、彼女の肩が小さく揺れる。


 「……あんなの、私にはできない。誰かをかばって、自分が傷ついてもいいなんて、思えない……」


 声がかすれていく。けれど、それでも言いたかったのだろう。フィオは俯いたまま、続けた。


 「私、ずっと、誰にも優しくなんてされなかった。優しいって、どうすればいいのか、わからないの……」


 最後の言葉は、かろうじて声になった吐息のようだった。


 私は、そっと息をついた。


 その小さな背中に、どれほどの孤独と痛みが積み重なっていたのか。どれだけのあきらめと、どれだけの“知らなさ”の中で、彼女はこれまでを生きてきたのか。


 「……知らなかっただけなら、これから覚えていけばいいわ」


 そう言った自分の声が、思っていたよりも静かで、温かかった。


 「優しさは、与えられたことがある人しか持てないものじゃない。フィオ、あなたはもう、誰かを気にかけられる人になってるわ」


 フィオは顔を上げなかった。けれど、唇がわずかに震えたあと、小さく何度か瞬きをするのが見えた。


 グレイスが気を利かせたように、そっと席を外す。静寂が落ちる部屋の中、かすかに風の音が聞こえていた。


私は椅子に座ったまま、少しだけ身を乗り出すようにして、そっと言葉を紡いだ。


 「……それでもね、私は嬉しかったの。フィオが、私のことを心配してくれたこと」


 フィオの睫毛が、かすかに揺れる。


 「それだけで、救われたような気がしたの。だから……ありがとう。フィオ」


 そっと微笑んで告げたその言葉は、確かにフィオの胸に届いたようだった。


 彼女は小さく肩を震わせ、そしてようやく、こちらに目を向けた。

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