アルク 第2章|未熟な力、芽吹く時
岳は湯気の立つ紙コップのお茶を啜りながら、休憩室の窓の外をぼんやりと眺めていた。
午前中、陽翔の指導のもと、体力トレーニングと魔力制御訓練はどうにかこなした。
筋肉はきしみ、魔力の流れもまだぎこちない。だが、陽翔は「焦らなくていい」と言ってくれた。
すみかや坂本も、失敗談を笑い話にしてくれて──少しだけ、肩の力を抜けた気がする。
……問題は、午後だ。
「事務仕事って、なにするんだろうな」
思わず、ひとりごちる。
社会に出て四十数年、工場で油まみれの現場仕事しかしてこなかった。
デスクワークなど、想像もつかない。
パソコンは家にあったが、せいぜいゲームをしたり、ネットを見たりする程度。
「業務に使う」なんて考えたこともなかった。
ふと、静の言葉が頭をよぎる。
──午後は佳乃さんと一緒に、事務研修だよ。
──ちゃんと聞くようにね?
(……無理かもなぁ)
そんな弱気を隠すように、岳はお茶をぐいっと飲み干した。
「──九条さん、準備できた?」
声をかけてきたのは、事務担当の田村佳乃だった。
やわらかな笑顔と、落ち着いた声。
岳は思わず緊張しながら立ち上がり、軽く会釈する。
「はい……たぶん」
「ふふ、大丈夫。最初はみんな“たぶん”だから」
佳乃はそう言って、岳を社内奥の事務スペースへと案内した。
並んだデスク。整然と置かれたパソコンたち。
そのひとつ──まだ真っ暗な画面の前に、岳は座る。
「じゃあ、まずはパソコンの起動からね」
佳乃が優しく説明する。
電源ボタンを押す──たったそれだけのことなのに、岳の指は少しぎこちなかった。
(……こんなんで、大丈夫か、俺)
PCが起動し、ログイン画面が現れる。
佳乃が渡してくれた初期パスワードを入力する手も、少し震える。
「よし、ログイン成功。最初の関門突破だね」
佳乃がにこっと笑う。
岳も、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
次に教えられたのは、社内メールの確認方法だった。
マウスを動かす。クリックする。
普段ゲームでなんとなく使っていた動きとは違い、「仕事」の重みが伴うだけで、こんなにも慎重になるものかと、岳は自分でも驚いた。
「じゃあ、これが今日の研修用の資料。まずは目を通してもらって──」
言われるままにファイルを開く。
魔力制御に関する基礎知識、応急対応マニュアル、社内連絡網──
専門的なものと、事務的なものが混じった資料群に、岳は少したじろいだ。
「……けっこう、色々あるんですね」
素直な感想を漏らすと、佳乃はふっと笑った。
「最初から全部覚えなくていいから。
読むだけでも、知らないよりずっといい。
もし困ったら、周りに聞いてね?」
その言葉に、岳はふと息をついた。
(……なんだろう。この会社、優しいな)
研修が進み、タイピング練習へと移る。
岳の指は、どうしてもぎこちなく、遅かった。
カタカタ、カタ……カタ……。
何度もミスを繰り返し、何度も消して、打ち直す。
そんな自分に少し恥ずかしさを覚えかけたとき、佳乃がさらりと言った。
「大丈夫。坂本くんなんて、最初、Enterキーがどれかわからなかったから」
「……マジですか」
「マジマジ」
佳乃はくすっと笑った。
岳もつられて、小さく笑う。
(……まあ、焦ることはないか)
背もたれに軽くもたれかかり、岳は小さく息を吐いた。
紙コップに残った冷めかけのお茶の味が、妙に、優しかった。
「──どうかね?若人よ。事務仕事はいけそうかね」
妙に芝居がかった口調で、背後から声がかかる。
「え、ええ……」
キーボードに集中しすぎていた岳は、振り向くこともできず、間の抜けた返事をする。
それを見た静は、「大丈夫大丈夫!」と笑いながら、岳とパソコン画面の間に数枚の資料を滑り込ませた。
「ブラインドタッチは我流でできるようになるから、心配しないで」
そう言いつつ、資料に指をとんとんと置きながら続ける。
「君がここに来て、だいたい一か月くらいかな。
魔力の振れ幅も安定してきたし、出力もだいぶマシになった。」
「──というわけで、外部研修に行ってもらおうと思います!」
ぱん、と手を叩きながら、にこりと笑う静。
「……来週の木金ね」
「へっ……?」
岳は素っ頓狂な声を上げたが、
静はそれを楽しそうにスルーして、さらに付け加えた。
「大丈夫。最初は“見てるだけ”だから♪」
にこにこと、まるで「ちょっとそこまで買い物行ってきて」くらいの軽さで。
岳は、ただただポインタを見つめたまま、固まった。
岳は、田村 陽翔から差し出されたそれをじっと見つめた。
「……え? 本物?」
驚いて問う岳に、陽翔は肩をすくめた。
「いや、モデルガンだよ。
とはいえ、イメージしやすいように精巧に作ってあるけどね」
モデルガンを軽く回しながら、陽翔は続ける。
「君は覚醒型なんだけど、封印されてた期間が長いんだよね。
無属性魔法──たとえば“ソリッド”──を使うには、本来術式の組み立てが要るんだけど、
君の場合、それがまだうまくできない。
まぁ、簡単な日常魔法なら問題ないけどね」
確かに岳には、覚醒型が得意とする無属性魔法の術式構築がまだ難しかった。
陽翔は、時間が経てば慣れると励ましてくれたが──
現状では、魔力密度を高めて殴るという原始的な手段しかなかった。
陽翔は訓練場の一角を指差した。
「魔力密度が黒ってのは、他の色とは違う。
ただ触れただけで、無機物にも他者にもダメージを与える。──あそこの壁、見えるだろ?」
視線の先。
そこには、まるでバターナイフでバターを切り取ったかのように、
浅くえぐられた壁があった。
──三日前。岳が無意識に黒密度の魔力を漏らし、触れてしまった痕跡だ。
「す、すいません……」
岳が頭を下げると、陽翔は軽く笑った。
「いや、いいんだ。
むしろ、これを“武器”にできるのが君の強みだ。」
陽翔は片手をグーにしてから、パッとパーに開いてみせた。
「呪詛結界の解呪や、敵の防核術式の破戒──
魔力出力を安定させれば、触れるだけで強引に破ることができる。
……まぁ、人間にかけられた呪詛だと、強引にやると対象も無事じゃ済まないけどな。
でも、壁に描かれた術式くらいなら、ボンッ──って感じで破壊できるわけさ」
陽翔は、楽しげに小さな破裂音を真似した。
「んで、殴るだけじゃ味気ないだろ?」
岳が戸惑うようにうなずくと、陽翔はにやりと笑い、モデルガンを軽く掲げた。
「飛ばすイメージを持つために、これの出番ってわけだ。
魔力の出力と指向性を安定させるためにね──」
岳は、手の中のモデルガンを見つめた。
無機質な金属の感触が、やけに現実味を帯びていた。
「魔法の半分はイメージの世界だ。
銃に魔力を集中させ、出力を上げた状態で──
脳内で撃鉄を起こし、引き金を引く。」
陽翔の言葉を胸に、岳はそっと目を閉じた。
魔力を銃に集中させる。
──バチリ、と小さな音。
感覚でわかる。魔力密度は黒へ到達し、出力も安定した。
あとは、イメージだ。
脳内で、撃鉄を上げ──引き金を──
──引く──!
ガオンッ!!!!
轟音とともに、訓練場の空気が一変した。
「ぐえっ!?」
間抜けな声がすみかのほうから聞こえる。
岳はゆっくりと目を開け──
そして、目の前の光景に、心臓が凍りつく。
訓練場の壁に、直径50センチほどの大穴が空いていた。
その向こうには──隣の駐車場が、丸見えだった。
「おおおおおおおお、やっちまったああああああ……!」
岳は、入社以来初めてかもしれない本気の焦りで、思わず叫んだ。
沈黙。
静まり返った空間の中で、陽翔がぽつりと言った。
「あー……まぁ、出力は十分だな」
苦笑いを浮かべながら。
「うわ、これ絶対静さんに怒られるやつ~!」
すみかがバタバタとその場を駆け回り、
坂本が新聞からちらりと視線を上げて、ぼそっとつぶやく。
「直しとけよ……」
岳は額に手を当て、途方に暮れるしかなかった。
数時間後。
大穴の空いた壁には、
仮補修用の強化プラスチック板がぴったりと貼られていた。
その中央には──
「修理中☆」
と書かれた紙。
達筆すぎるほどに美しく、それでいて星マーク付きという
絶妙に怖い手書きメッセージが、岳たちを静かに見下ろしていた。
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