猜疑と恐怖
――――もしも。
もしも、ルーカスが全てを察していた上でこの状況を利用していたのであれば。
そこまで考えて、シキの顔が苦虫を噛み潰したように歪む。
ルーカスが信仰する神は、シキが信仰する神『ミタマ様』と同じタイプの治癒系に属する土着神で、ルーカスは医療術に精通していた。
『記憶混濁』。
『ミタマ様』がシキに施した信仰術であり【中級】に位置する信仰術になる。
その効果は特定の人物にまつわる認知や記憶を一時的に歪める事が出来るというもの。
虐待や性被害、トラウマとなる記憶を歪める事で患者が抱えている精神の傷を緩和する。
専ら『治癒』を目的として開発された信仰術になる。
この信仰術の弊害として、治療されている間は特定の記憶や認識に僅かな
それを目的とした信仰術なので当然と言えば当然だが、状況が深刻な程に歪みも大きくなる。
嫉妬、劣等感、嫌悪感、恨みつらみ。
『発狂』を起こすまでに膨れ上がった悪感情。
その直接的な原因となっていたルーカスへの『
(なのに、ルーカスは何事も無かったかのように会話を俺に合わせていた)
舌打ちをしたい気持ちを抑える。
恐らくルーカスは、この時には既に何かしらの方法でシキが『ミタマ様』から直接医療術を施されていることを知っていたのだろう。
ルーカスは最初こそ狼狽した様子を見せていたが、その後すぐに平静を保っていた。
まるで、シキに何かが起こる事を予想していたように。
相手が自分のことを忘れ、突然他人のように話し掛けてくるのだ。
事情を知らないのであれば、普通なら訳も分からず相当混乱するはずだ。
にも関わらず、ルーカスの態度は明らかに何かを知っている素振りだった。
いや、ルーカスだけではない。ルーカスから情報を共有されたのであろう、『紅』のメンバー全員が何かを企んでいる素振りを見せていた。
思えば、シキに「同じ医療術を扱う神官としてこれからよろしく」と近付いてきたのはルーカス達の方だった。もしかしたら、元々トトナが目的だったのかもしれない。
だとすれば、やはり。
「……」
バキン、と地面から飛び出していた枝をシキは苛立ちから踏み抜いた。
ルーカスは元より『ミタマ様』が精神治癒に特化した土着神だという事を知っている。
そして、そんな精神治癒を得意とする『ミタマ様』の影響下にシキの意識があるという情報をルーカスは掴んでおり、それに付随してシキの記憶の中からピンポイントでルーカスに関する記憶だけ消されていたのだ。
この時点で、シキの現状に自分が何かしらの形で関係しているという事をルーカスは理解していたはずだ。
そして、極めつけとなるのがトトナの存在。
(……俺の従者を辞めたいと、ルーカスはトトナから相談を受けていたはずだ。トトナはあれだけルーカスのパーティーに入り浸ってたんだ。相談する機会なんていくらでもあるだろう)
命を助けたにも関わらず、恩を忘れて自分の元から離れたがっているトトナを逆恨みし、そしてトトナから好意を持たれているルーカスに酷く嫉妬した。
それが起因となって『発狂』をシキが起こしかけた事で、その原因を取り除こうとミタマ様は信仰術を施した。
これが事の顛末だ。
ルーカスは、これらの事を察していたのではないだろうか。
『シキは
トトナから相談を受けていたのであれば、ルーカスが早い段階でこの真相に辿り着く事は可能なはずだ。
そして、だからこそこの状況を利用出来ると踏んだのではないだろうか。
朧げだった記憶も、信仰術の効果が切れた今ならシキははっきりと思い出せた。
シキが信仰術を施されていた間の記憶。
その時に、ルーカス達から投げられた言葉の数々。
『これ以上トトナを縛るようなら、僕はあなたを許しません』『いい加減、トトナから離れて下さい』『もうトトナちゃんを振り回すの辞めてくれない? 潰れるなら一人で潰れてよ』
鋭く、刺々しい攻撃的な言葉と態度。
ルーカスたちは、シキが治癒を受けている真っ只中という事を知っていたはず。
なのに、なぜ『発狂』を加速、悪化させるような真似をしていたのか。
(俺が『発狂』を起こすことで、ルーカス達が得をするような事。思い当たるのは、一つしかない)
苛立ちが渦となって燃えるシキの頭の中に浮かぶのは、自身の『従者』だったトトナの顔。
トトナが自分の従者を辞めたがっていたのはシキも気付いていた。
トトナが自分から辞めたいと言い出さなかったのは、恐らく幾つかの理由があったから。
一つは、命を助けてもらったという義理。
もう一つは、トトナが自分から従者になりたいと言ってしまった手前、やっぱり嫌だと意思表示する事が出来なかったから。
そして、最後の一つ。
トトナは『従者』を辞めた場合の周りの神官からの風評を恐れたのではないだろうか。
『従者』から神官になる為には、最低でも五年が掛かる。
神官までの育成に長い期間を要する都合上、神官になる直前で『従者』を辞められてしまうと代わりを見つける事は出来ない。
神官へと昇格する直前の『従者』は、替えのきかない存在なのだ。
だからこそ古参の『従者』に突然辞められてしまうと本当に困る、というのが全ての神官共通の認識だった。
特に、信者の規模が大きく従者の数も多い
どうしてもやむを得ない理由でもない限り、直前になって『従者』を辞める行為は一種の
だからこそ――――。
(だからこそ、トトナから相談を受けていたルーカス達は俺が発狂を起こしているという状況を利用したかったんだろう)
何か理由が無ければシキの『従者』を辞める事は出来ない。しかし逆にいえば、正当な理由があれば鞍替えをしても誰にも追及はされない。
『自分が仕えている神官が『発狂』を起こしてしまった。回復の目処も立たない。その為、止むを得ずその神官の従者を辞めることになってしまった』
この建前を作ることが出来れば、周りの神官から何かを言われる心配は無い。
それどころか「もう少しで神官になれたのに災難だったな」と、本来向けられるはずだった怒りの矛先を
「……っそが」
許容出来る限界を超えて、歩いている間ずっと胸内に溜め込んでいた苛立ちが声となってシキの内から飛び出した。
『発狂』を起こしたシキを見てルーカス達は心配するどころか、これ幸いと状況を利用する方向に喜びながら舵を切ったのだろう。
トトナがそれを知っていたのか、はたまた『紅』が内密でやっていたのかは分からない。しかし、これまでのトトナの言動を考えれば――――。
シキは、再度残っている信仰力の量と信者の人数を確認する。
現在の信者の数は『12』人。
ユリが従者になった事で『11』から『12』に増えたのは確認している。
ただ、トトナが従者を辞めるはずなので足し引きで『11』に戻るはずだ。
しかし、村を飛び出してから随分経つというのに信者の数に変動は無い。
考えられる可能性は。
(……単に、まだトトナが俺の従者を辞めていないだけの可能性。もう一つは、とっくの昔に俺の従者を辞めていた可能性)
トトナの言動を考えれば、後者の方が可能性としてはあり得る。
トトナが従者を辞めても、絶対に気付けないタイミング。
過去に一度、信者がごっそりと消えた事があった。
それこそ、忘れもしない村への魔獣による襲撃。
そこはミタマ様の本殿があった村でもあり、シキの生まれた村でもあった。
『ミタマ様』信仰の総本山となっていた場所だ。
全体的に信者の獲得には苦戦していたものの、それでもあの頃は村だけでも四百人もの信者がいたのだ。
シキが小さい頃から仲良くして人達、家族、シキが尊敬していた先輩の神官達。
それが、たった一日で全員消えてしまった。
恐らくトトナは、その時の信者の減り具合を見て完全に見限ったのだろう。
トトナがその時のどさくさに紛れてシキの従者を辞めていたのであればシキに気付く術はない。
何よりも、トトナがルーカスのパーティーに入り浸るようになり出したのがその頃だ。
タイミング的にも合う。
トトナは毒舌な節はあるが、それもこれもトトナなりに自分の事を考えてくれている結果だとシキは思っていた。
しかし、そんな風に喜んでいたのはシキだけで、実際のところトトナにどんな風に思われていたのかは分からない。
容姿も素質も何もかも釣り合わず、それなのに相手に勝手に想いを寄せ、そして裏切られたと心の中で大騒ぎをする。
そんなシキを見て、裏でトトナはルーカス達とどんな話をしていたのか。
ぐるんぐるんと、何も無いのに頭だけがひたすら空回りしている感覚。
込み上げる、頭を掻き毟りたい程のもどかしさと気持ち悪さ。
思えば、順風満帆とまではいかなくても充実していたシキの生活は、この時から全てが変わってしまった。
村の顔見知りにはもう誰一人として会うことが叶わない。
目指すべき指標として、追い越すべき背中としてシキの前を走っていた先輩の神官方はみんな消え失せ、シキは強制的に「神主」になった。
――――本当なら、実力でその職位を取りたかったのに。「神主」になったところで、それを祝福してくれる親はもういないのに。
胸の奥から湧き出す不快感と怒りが強くなっていく。
鼻息が荒くなり、込み上げる苛立ちで視野が狭くなる。
しかし。
「……」
シキの表情は次第に諦めと無念の混じった悲観のものへと変わり、言葉の代わりに大きなため息を吐いた。
次いでシキを襲うのは無力感と虚脱感、寂寥感。
独りで怒りを滾らせ、激しく燃えたところで残るものなんて一つも無い。
もう、全て終わったことなのだ。
『ミタマ様』から施されていた信仰術の効果が完全に体から抜けたのだろう。
記憶が鮮明になる。
同時に、どうしようも出来ない息苦しい事実が目の前に戻って来る。
楽観的だった思考が、本来のものを取り戻す。
(……大人に、ならなければ。別れなんて誰にでもある。子供じゃあるまいし、いつまでも前の事を引きずってないで自分のすべきことをしないと)
立ち止まり、全てを投げ出して寝転がりたいという欲求を追い払い足に喝を入れる。
シキは数回深呼吸をして、空気を入れ替えるように苛立ちで乱れた息を整える。
そんな事をして歩いている内に、木々は疎らになる。
考え事に夢中で、早足になっていたらしい。
もう少しで道に出るのだろう。
ガサガサと膝下ほどある茂みを乗り越えて、シキは見覚えのある踏み締められた地面の上に立つ。
汗の流れる首元を、冷たい風が通り抜ける。その風に乗って、ユリの声がシキの耳に届いた。
「し、神官様!」
不安気な表情を浮かべていたユリはシキを認めると、花が咲いた様な満面の笑みで駆け寄ってくる。
自分に真っ直ぐに向けられる視線に、シキの頭に少しだけ余裕が戻ってくる。
しかし、その隙間から猜疑と恐怖が顔を出す。
(もしも、ユリにも裏切られたら……)
じっとりと肌に張り付くような、冷たく嫌な汗。
自分に向けられる笑顔が、昔のトトナと重なる。
命を救ったくらいでは、気持ちは風化する。
「神官様! よ、良かった、 少し遅かったので、何かあったんじゃないかと心配してました……」
「……ユリ、遅くなってごめん。少し話し込んでた。神様に、新しく従者になってくれたユリの事を紹介してたんだよ」
「そ、そうだったんですか。えっと、そ、それで神様はなんと仰っていたのですか……?」
恐る恐る窺ってくるユリに、シキは神官としての笑顔を貼り付ける。
「勿論、褒めてたよ。
「本当ですか! う、嬉しいです!」
えへへと笑うユリを見て、シキの中には複雑な波紋が広がった。
しかし、それを無理やり飲み込む。
神官の育成をトトナで失敗している以上、もうミスは許されない。どんな手段を使ってでも、ユリを丸め込む必要がある。
残された唯一の神官として、亡くなっていった先輩の神官達の無念を晴らす為にも、自分が頑張らなければいけない。
仕方ないのだと、シキは自分を納得させる。
「……だから、ユリがうちの神官になってくれれば心強い。まあ、五年はかかるけど、逆に言えば五年で俺と同じ神官職に就ける。……さっきも言ったけど、俺に付いてきて欲しい。俺は、ユリの事を信じてるから」
「は、はい! わ、私も神官様のことを信じています! どこにでも、神官様に付いていきます!」
「……。ありがとう」
求めていた答えが返ってきたはずなのに、震えそうになる声を捻じ伏せてシキは話す。
皮肉にも、シキは『ミタマ様』の影響下にあった時の方がユリの事を純粋に信じられた。
先程と同じ台詞をユリに言っているはずなのに、後ろめたさと恐怖がシキの心中を埋め尽くす。
信仰術の効果が僅かながらもまだ体に残っていたあの時と違い、今のシキは打算に塗れ、自身の保身を第一に考えてしまっている。
「……それじゃ、まず村に行ってみるか。一応作戦は考えたから、道中で話しながら行こう」
「は、はい!」
嬉しそうに隣に並ぶユリに、シキは歩調を合わせる。
――――『発狂』はもう起こさない。
高い期待を持つから、落ちた時に傷が大きくなる。好きになるから、裏切られた時に傷が深くなる。
神官として、これまで通り命を燃やしてでも全力で人を救う事自体は同じだが、救った人間に期待を持ってはいけない。
(期待をするからバカを見るんだ)
信仰力を貰う。
それ以上の見返りを求めていけない。
神様に相談をすればまた使ってくれるかもしれないが、どちらも【中級】に位置する信仰術になる。
信仰力の少ない現状では、自分に使ってるほどの余裕は無い。
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