第7話 名を伏せた声
窓の外に光があった。それが朝のものか、夕方のものか判別できないほど、俺の身体は曖昧な時間に沈んでいた。
うたた寝をしていたのかもしれない。あるいは、意識を手紙に溶かしていたせいで、自分が眠っていたことにも気づけなかっただけか。
ただ、確かなのは--胸の奥に、名前の破片のような”響き”が残っていた。
エ……ミ……?
それは夢ではなかった。もっと現実的で、もっと生々しかった。彼女の名。喉の奥に刺さったまま発音できないその音が、脈打つように繰り返されていた。
名前の断片を追って、俺は再び便箋の束に目を落とす。数枚目の裏側、薄く裏写りしているようなインクの滲み。そこに、文字があった。
逆さになっていた。
いや、鏡文字だ。読めるはずの文字が、読めなくなっていた。それでも、”知っている”という確信だけがある。
俺はその文字を指でなぞった。すると、便箋の紙がわずかに軋んだ。
指先に、感触があった。それは、誰かがすでにそこをなぞった痕跡。……五本の、細く、小さな指の跡だった。
紙がわずかに歪んでいた。まるで”誰かの手”がそこに触れていたかのように。
思い出す。階段の音。雨。振り向いた彼女の表情。それらはすでにうたた寝をしていた夢の中で再生されたものだった。だが今は、俺はその続きを現実の中で思い出している。
あの時、おれは確かに名前を呼んだ。彼女の名を、呼んで、何かをしようとした。けれどそれが何だったのか、記憶の中に霧がかかっている。
そして誠司。彼はなぜ、それを知っていた?
現場にはいなかった。それなのに、手紙にはこう書かれていた。
〔君がその名を思い出すとき、私は君の中で形を得る。君がそれを”した”かどうかは問題ではない。”そう語った”ことが、既に語りの一部になる〕
便箋の端に、俺の筆跡で書かれた一語。書いた記憶などない。それでも、書いたことにされていた。
ーーー赦し。
その文字だけが、濡れたように滲んでいた。
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