第3話 吾輩は見抜いた──グラビンは働いたフーリ眼
毎朝。遅れて起きてくる男の手には、すでに気合いのかけらもない。
とはいえ、動きは一定のリズムを保っておる。やる気ではない。習性である。
彼は椅子にどさりと座ると、木目に似せた安っぽい台座の上に据えられた、“黒き鉄の箱”に手を伸ばす。
その一角に、小さな丸い印がある。
ちょん、とそこを押す。すると──
ぶおおぉぉぉぉぉん……!!
とんでもない唸り声を上げ、箱が動き出す。
「っ!? やはり呪具か!?」
最初は本気で飛び退いたものである。
が、それからしばらく観察していると、この“ぶおおぉん”が日課であることに気づいた。そしてもうひとつの謎が、“まな板”である。
箱の隣には、平べったくてガラスがはめ込まれた“板”があるのだが、これが急に光るのだ。しかも眩しい。
薄く青みがかった光に浮かぶのは──「Wel○〇」とかいう読めぬ記号。
読み方すらわからん。
どうやら呪文の類ではなさそうだが、毎日違う“記号”が出るわけでもなく、意味があるのかないのか分からぬ。
吾輩がこれまで100年余をかけて修めてきた猫的学問の中にも、こうした板の光り方に関する記述はない。
仮にあるとすれば、「人は時に、意味のないものに祈る」くらいの教訓ぐらいである。それでも、グラビンは今日も“まな板”の前に座り、にらめっこを続ける。
にらんではいる。が、どうにも内容は進んでいないように見える。
そして、数分後。
彼は目を伏せ、こう呟くのだ。
「──今日は、まだ調子が出ないな」
この男の“調子”とやらは、いつ出るのだろうか。
まな板のような板の上に、また妙な画面が開かれている。
小説投稿サイト──とやらの下書き画面だそうだ。
吾輩には何やらおどろおどろしい呪文帳にしか見えぬが、ご主人様曰く「今日こそ1ページ書く」とのことだった。
しかしである。
画面に表示された文字列は、どう数えても五行。
しかもそのうち三行は「うーん……」と「いや、違うな」から始まり、残り二行は「──」で始まって「……。」で終わっておる。まるで悩んでいるふりをしている猫の背中のような曖昧さだ。
もっと言えば、下には小さく似たような文字が記されている。
「入力文字数:515 削除文字数:510」──意味は分からぬ。
だが、進捗というには、どうにも心許ない数字である。
(……なに、これは魔法か? それとも現代人の高度な儀式か?)
吾輩が不思議そうに画面を覗き込んでいると、ご主人様はソロバンと見るにははるかに大きな何かを、弾くではなく叩きつけながら「進んでる、進んでる」と呟いた。
──何がじゃ。進んでおるのは、時刻のほうだろうに。
時おり、あの箱は目の前の板を光らせながら、声を出すことがある。まるで中に誰かが住んでいるかのように、ぺらぺらと喋っておる。
それをじっと見つめては、我がご主人様──あの男は、小さくうなずいたり、片眉を吊り上げたり、時に薄く笑んだりしておる。
(なにやら……声のする活動写真のようだな)
どうやら、働く合間の「リサーチ」とやらに勤しんでいるらしいが──
映っておるのは、上等な寝具に眠る男が、朝五時に目を覚まし、檸檬水を飲んで太陽礼拝をし、日記と筋トレと、洒落た珈琲を淹れておる姿。
……うむ、業が深い。
***
少し振り返ってみようと思う。
まず。
ご主人様は、朝から“お仕事”と称して、ソロバンのようなものを叩いている。
正確には、叩いているふりをしているだけなのだが──吾輩にはわかる。
最初は何やら文字を眺めていたと思ったが、気づけば“光る板”の上で、声のする活動写真を観てはひとり頷いている。
「これはリサーチなんだ」とか、「トレンド把握は重要だ」とか──
そして再生されるは「億万長者の朝ルーティン」。
──業が深い。
そして定期的に「ふぅ〜、疲れた〜」と伸びをしている。
──ごくろうである。“省エネ神”の名は伊達ではない。
なにしろ吾輩の目から見ても、この男は“働く”という概念を、ずいぶん個人的に定義しておる。
たとえば。
毎朝九時になると律儀にパソコンの電源を入れる。これは素晴らしい。えらい。
──その後、三十分間、何も起きない。これもまた、えらい。
やがて昼を過ぎたあたりで、ご主人様は突然呟く。
「そろそろ本腰を入れるか」
そして、机を拭く。
本腰とは何か。
おそらく、清掃の神でも憑いたのだろう。
いや、もしかすると“始めた感”を出すことで自分を誤魔化す儀式なのかもしれぬ。
それとも──
讃岐うどんのように、己を練り込んで腰を強くしようというのか。
……分からぬ。
……だが、吾輩には見えてしまうのだ。
この男の背中から溢れ出す、“フーリ眼”の哀しきオーラが──。
***
昼を少し回った頃だった。
ご主人様が突然「やっべ、忘れてた」と呟き、光の板(パソコン)の前で狼狽し始めた。
まず、何やら書き殴るようにソロバンもどきを叩き始め、続いてはその場で起き上がり、物陰から白い箱を引きずり出した。箱には黒い紐が刺さっており、ご主人様は慣れた手つきでその紐を何かに繋げると、謎の板に向かって「頼むぞ……一発で出てくれよ……」などと意味深な言葉を呟く。
──これは、かつて見た“豆炊き機”に似ておるが、何故か四角い。
しばらくして、白い箱が低くうなりをあげ、その口から紙がじょじょに吐き出された。それを見たご主人様は「よしッ」と小さくガッツポーズを決めた。
──な、なんじゃこれは!? 紙が勝手に現れたぞ!?
吾輩は驚きでしっぽを膨らませそうになった。
だが、ご主人様はまるでそれが当然かのように紙を手に取り、それをパタパタと振って乾かす(?)と、封筒という茶色い袋に押し込んだ。
その様子は、まさに**“神託の写しを納める儀式”そのものであった。**
「……先方はネット開けないからってさ。ったく、紙媒体かよ」
ご主人様が小声でそう呟いたが、吾輩にはその意味はわからぬ。
ただ──何やら“神に抗う者”とやりとりしている気配だけは感じ取れた。
封筒を小脇に抱え、吾輩のご主人様は「よっこらせ」とか言いながら自転車を漕いだ。ペダルは重い。ご主人様の心もまた重い。
なにせ、今まさに“仕事をしているふり”が限界を迎えつつあるからだ。
――吾輩は見ている。
この書類が、最後の希望などというのは言い過ぎであろうが、
少なくとも、今日の“唯一の外出目的”であることは間違いない。
商工会の窓口でご主人様は封筒を出す。
口調は丁寧だが、声の小ささが全てを物語っていた。
「○○さんに……頼まれてまして。地域紹介記事の……下書きです」
窓口の女性は愛想よく微笑み、
「○○さん、先月で辞めましたよ?」と事もなげに言い放った。
ご主人様、固まる。
封筒がわずかに震え、吾輩のキャリーバッグの中にも微妙な振動が伝わってきた。
「え、でも、その……記事を……」
「えっと……ああ、それ、先週、別の方がいらして渡していきましたよ」
「…………」
吾輩は目を細めた。
(……どの“別の方”なのか、誰も知らないというのが、一番怖いところだな)
受付の女性は何事もないように「あ、お気をつけて~」と笑って見送る。
ご主人様は力なく頭を下げ、ドアのチャイム音すら聞こえぬ顔で外へ出る。
帰り道、駅前の人波を抜けて、すっかり寂れた商店街の角を曲がったころ。
グラビンの足取りは、いつにも増して重かった。
コピー用紙の入った封筒は、今や何の意味もなさぬただの紙くずである。
──いや、吾輩からすれば、元から何の意味もなかったのだが。
足元から「くぅん」と鳴いてやろうかとも思ったが、そういう習性は吾輩にはない。吾輩は猫である。鳴くときは、ちゃんと鳴く。
それでも──あまりに哀れだったので、吾輩はほんの少し、声をかけてやりたかった。……けれど、出てきたのは、
「みゃぁあう」
だけだった。
グラビンは、しゃがんで吾輩の頭をぽんぽんと撫でた。
それは、どこか力なく、どこかやさしい手つきだった。
──その瞳に、わずかな光が揺れていた。
風が吹いた。
どこからともなく、干物の香ばしいにおいが鼻先をくすぐった。
つづく
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