第2話 吾輩は見ている──グラビン一日観察日記
数日が経った。
案外と言うべきか、案の定と言うべきか、グラビンという人間の生活には、まるで風景のような繰り返しがある。
朝は遅く、食事は貧しく、部屋は常に散らかっている。
その代わり、口数も少なく、喧騒も無い。
──吾輩には都合のよい環境ではある。
だが、吾輩が最も意外に思っているのは、その生活態度でも部屋の乱雑さでもない。“言葉”である。
はじめのうちは、彼が何を喋っているのか、ちんぷんかんぷんだったのだ。
「タスクが溜まってる」とか「案件消化」とか、妙な呪文をぶつぶつ唱えていた。
だが、いつの間にか、理解できるようになっていた。
Webライティング? フリー素材? SEO対策?
なんとなく意味が取れるのだ。
別段、努力したわけでも、勉強したわけでもない。
本を読んだ覚えも無い。
ただ、グラビンの背中を眺め、その独り言に耳を傾けているうちに──自然と、言葉が脳の中に染み込んでいた。
これが、吾輩が溺れた結果なのか、
それとも元々備わっていた“猫の力”なのかは、分からない。
……まぁ、猫としての記憶が曖昧なので、比べようがないのだが。
ともかく吾輩は今、グラビンの話す「人間語」を、ほぼ完璧に理解できている。
便利なようでいて、案外そうでもない。
なにせ、内容が、毎日ほぼ同じなのである。
***
朝。
吾輩の耳元に鳴り響く、古ぼけたスマートフォンのアラーム。
“朝活”なる概念に対し、彼は明確に敵意を持っている。
「あと……3分……」
などと呻きながら、彼は布団の中で三度死ぬ。
結局、起き上がるのは朝ではなく“昼手前”だ。
冷え切った床に裸足で触れ、奇声を上げながらトイレに向かう。
──なお、トイレの便座は未だに割れている。直す気は無いらしい。
食事は、昨日の残りのパン耳。
たまにラッキーで半額シールの総菜パンがあるが、最近は棚にたどり着く前に大学生に取られている。
白湯(またの名を沸かし損ねたお茶)をすする姿は、まるで修行僧のようだ。
その目には悟りではなく、単なる疲労が宿っている。
太陽が南天に達する頃、彼はパソコンの前に座る。
モニターの前でしばしフリーズし、
「書くか……書けるか……」
などと念仏を唱え始める。
1,000文字の小説を書くのに、2時間のスクロールと3杯の白湯を必要とする。
書き終わる頃には、彼の魂が薄くなっている。
(吾輩は時々、彼の後ろにうっすら見える“何か”を見てしまうが、怖いので触れないでおく)
午後は、「副業」タイムだそうだ。
彼曰く「Webライティングの鬼」らしいが、
吾輩が覗くと「一記事300円、納期即日」の鬼仕事である。
しかも「AI生成は禁止」の注釈付き。
──なぜか悲しそうに笑っていた。
夕方、近所のコンビニへ出撃。
本日の目的は“割引シールの巡礼”だ。
彼の狙いは「賞味期限:当日」の鳥そぼろ弁当。
争奪戦の敗北により、乾いた焼きそばパンで手を打つ日もある。
帰宅。
吾輩の皿に、ぬるい牛乳がとぽりと注がれる。
片手でコンビニ袋をぶら下げたまま、彼は小さく、誰にともなく呟いた。
「いいな、お前は。名前もなくても、生きていけて……」
ほう、羨ましがられるとは珍しいこともある。
だが、名の有無よりも、そこの煮干しをひとつ寄越してくれる方が、はるかに嬉しいのだがな。
それにしても、なぜ牛乳ばかりなのか。
確かに子猫には定番らしいが、吾輩にとってはもう少し――こう、出汁の効いた鯵の開きなどが望ましい。
骨付き煮干しなど贅沢は言わぬ。
……あれ? 煮干しはそもそも骨付きであったか。
うっかり忘れていた。
我が身のなりなど、これまで一切気にしたことがないが、ふと見れば、床に映る影がやけに小さい。掌で顔を撫でつける手先も、妙に幼い。
むむ、もしかして――吾輩は若返っているのではあるまいか?
いや、正確には、子猫に戻っているのかもしれん。
そうと合点がいけば、牛乳も致し方なし。
だがしかし――できれば次は魚にしてほしい。
魚くれ。
夜。
部屋に響くのはキーボードの音か、胃の鳴る音か、ため息か。
彼の小説に「いいね」がひとつでも付くと、彼は3秒だけ元気になる。
そうして、今日もまた、電気を消し忘れたまま、
彼は机に突っ伏して眠るのであった。
***
──この日常に、明日という名の“何か”が起きるかどうかは、まだ知らない。
吾輩は、ただその背中を見ているだけだ。
いつものコンビニではなかった。
いつものようなボロ町並みでもなかった。
今日は少しだけ気分を変えたいらしい。
そう呟きながら、例のくたびれた肩掛けリュックを引っ張り出してきた。
吾輩はその中、胸元の小物ポケットから、顔だけをのぞかせる。
歩く速度は、やはり遅い。
だが、今日はちょっとだけ前よりマシかもしれぬ。
気温もちょうどいいし、空には薄日。風も吾輩に優しい。
雑踏の音が近づいてくる。
吾輩は首をひょいとひねり、建物の背後から伸びてくる金属のラインを見上げた。
駅だ。
人の多いところに来たのは、溺れて目を開けてからこのかた、このような人の往来を見るのは初である。
駅前の喧騒は、まだ吾輩のひげをざわつかせるには充分すぎた。
ご主人──このヨレた中年男は、あまりこういう場所を歩くのは得意ではなさそうだ。それでも、今日は何かを買うつもりらしい。駅前の少し洒落たコンビニを目指して、緩やかに歩を進めていく。
──その時だった。
「ん? ……あれ? うっわ、まじか……ドンソ君じゃん?」
その声は後ろから来た。
高めのテンション、耳障りな馴れ馴れしさ、そして、なにより──
(“ドンソ”?)
吾輩は思わず、男の気温を測った。
……おっと、下がったな。三度どころではない。むしろ冷気すら感じる。
振り向いた先にいたのは、肩のよく通ったスーツを着た“いけすかない感じ”の男。髪はガチッと固め、手には最新型のタブレット端末。靴も……あれは水拭き済みである。職業、外回り。種族、エリート。
「うっわ~、変わってねえなその顔。なあ、お前さ、まだこの辺住んでんの? つーか、何やってんの今?」
なぜだか、ケラケラ笑いながら、彼は前に回り込む。
吾輩のご主人は、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……よく気づいたな。で、誰だっけ? 久しぶりだな」
(我ながら上出来の皮肉だが、声がちょっと震えていた。……うるさい、吾輩)
「なにそれ、他人行儀かよドンソ君~」
(これはいじめっ子というやつでは……)
ケトルん、直感で察した。
ご主人は何も言わないが、過去にこの男から、あまり良い扱いをされていなかったのだろう。
「で? なにその猫? ああ、ごめんごめん、ペットとか? ……癒されんだ? あはは、わかるわー! 今ストレス社会だからな~」
「……まあ、そんなとこかな」
ご主人は笑っている。
けれど、吾輩にはわかる。
その目の奥、ひどく擦り切れたものが今も残っているのだ。
彼の言葉は軽い。だが、ご主人の胸の中では何かが確実に軋んだ。
(お前……名前はまだ無いが、“重力波”を背負っておる)
スーツ男は、しばらく“懐かし話”を繰り返したあと、
適当な理由をつけて去っていった。新しい契約先がどうとか言って。
静寂が戻る。
「……ドンソ、か」
ぽつりと呟くご主人。
吾輩は胸元から身を乗り出して、軽く前足で彼の胸をとんと叩いた。
彼が視線を下げる。
吾輩は目で語る。
(気にするな。お主の重力は、吾輩が軽くしてやろう)
そう言ったつもりだったが──彼はふと笑って言った。
「お前、……なんかいい顔してんな」
悪くない午後だった。
***
駅の向こう側に延びる細い商店街は、夕暮れのせいか、あるいは時代のせいか、ひどく静かだった。シャッターが下りた店の前を通り過ぎるたび、ご主人様──例の男は足を少しだけ早めた。
そんな中、ぽつんと開いている魚屋があった。蛍光灯の青白い光に照らされ、干物が列をなしてぶら下がっている。
「半額だよ、お兄さん。今日のうちなら、まだいけるから」
「……じゃあ、これ。あと──いや、猫用ってのも、アレか。俺が食うわ。うん」
そう言って手に取った小ぶりのアジ干物を、彼は二つ買った。
部屋に戻ると、薄暗い蛍光灯の下、いつものちゃぶ台へ。
ガスコンロの上に、安っぽいフライパンと干物がのった。ケトルのスイッチがカチリと入る。
吾輩はもう、待ちきれなかった。
魚の香ばしい匂いが部屋に広がるたび、足がうずうずして動いてしまう。
たまらず、ご主人様の足に絡みつく。ぴと、と張りついて、するり、ふにゃりと登っていく。
「……おわっ」
驚いたようにバランスを崩しかけながらも、彼は皿に手を伸ばし、割り箸を二つ。
そのうち一つを──吾輩の前に、無言で置いた。
「ほら。焦げてるとこは、避けたぞ。……猫の舌って、繊細なんだろ?」
吾輩は答えず、しかし無言のまま身を寄せた。
湯気の上がる干物に、鼻を近づけてひとくち。──うむ、文句なしである。
ふと、彼がぼそりと呟く。
「いいな、お前は。……名前がなくても、生きていけて」
吾輩は、思わず喉を鳴らした。
湯気の向こう、彼の横顔が見える。少し疲れて、けれどどこか、あたたかい。
──また一日が終わった。
魚は干物、味はふつう、けれど吾輩には悪くない夕餉であった。
この部屋には、今夜もぬくもりがある。
そして、足元から、ちいさく確かな足音も──。
(了)
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