第4話:影からそっと

翌朝。


あずは目を覚ますと、まだ夢を見ているような不思議な気分だった。

一昨日の出来事――ぴよの復活。ぴーちゃんの沈黙。

どこか現実感が薄れている。


それでも、ぴよは元気そうにあずのベッドの足元で丸くなっていた。

いつも通りの朝。

いや、「いつも通り」に戻った朝、なのかもしれない。


支度を済ませ、出かけようとするあず。

玄関で靴を履きながら、ふと振り返る。


「……ぴよ、大丈夫?」


不安げに問いかけるあずに、ぴよはしっぽをふわんと揺らして、にゃあと一声。

その顔は、どこか安心させるような、堂々とした表情だった。


「ふふっ……行ってきます、ぴよ」


微笑んで玄関を閉める。


──その背中を、ぴよはじっと見送っていた。

マンション2階の窓辺から、出勤するあずの姿が遠ざかっていくのを、静かに見つめている。


カチッ――


ぴよの背中越しにあるモニターが無音で点灯する。

表示されたのは、あずの勤める会社名、住所、ビルの構造図らしきもの。

まるで調査データのように、情報が羅列されていく。


ぴよの目が一瞬、ネオンカラーに光る。


その直後、部屋の窓の自動開閉センサーが作動。

スッ……と、音もなく窓が開く。

ぴよは一度振り返るように部屋を見てから、ぴょんっと外へ躍り出た。


音も気配も立てず、あずの姿を追う。


──街中。

ぴよはあずに気づかれないように、距離を保ちつつ、巧みに車や人を避けながら追いかけていく。

猫にしては、あまりにも目的意識のある動き。


あずがビルに入っていくのを見届けると、

ぴよは外からビルの周囲を回り、空調ダクトの隙間を見つけてスルリと中へ入り込む。


気づけば、あずのフロア――オフィスの窓の外にぴよの姿がある。

窓越しに、じっと中を見ている。


──あずのデスク。


「田代さん、またこれ…前にも言ったよね?」

冷たい声であずを詰めるのは、やはり今戸先輩。


言い返せず、申し訳なさそうにうつむくあず。

その様子を、誰も助けようとはしない。

あずが席を離れた後、オフィスの隅で同僚の男性社員たちが口を開く。


「今戸さん、ちょっとキツすぎじゃないですか?」

「うーん…田代さん、すごい丁寧にやってると思うんですけど」


今戸は、一瞬黙ってから、小さくため息をつく。


「…仕事、ちゃんと覚えたいって気持ちは伝わってるの。言ったことは確実に直すし、根は真面目。

だから、ちゃんと育てたいのよ――甘くしても、この子のためにならないと思ってて」


その会話を、ぴよは窓の外から静かに聞いて頷くように1回ゆっくりとだけ、まばたきをした。

ネオンの光もない。

ただ、じっと、今戸を見つめている。


──休憩時間。


あずはデスクに戻り、カップに注いだインスタントコーヒーを見つめてため息をつく。


遠くから、視線を送ってきている同じくらいの年齢の女性。

同期だろうか。何か話しかけようとして、一歩引いて、また迷っている。


あずは気づかない。

ぴよだけが、そのやりとりを窓越しに観察している。


ぴよはその同期女性を見つめながら、

まるで「決めた」とでも言いたげに、目を細めた。





──昼休みの時間帯。


会社を出て、コンビニへ向かう 安部松子(あべ しょうこ)の足取りは、少しだけ重い。


(また…今日も話しかけられなかった……)


社内ですれ違っても、声をかける勇気が出ない。


入社から数ヶ月。

同じ時期に入った田代あずのことを、松子はずっと気にしていた。

朝礼で「宮城出身」と話していた彼女に、「私、山形です、近いですね!」と声をかけたのは、入社初日のこと。


けれど、その後はお互い仕事に追われ、話す機会がないまま。

同じ室内とはいえ部署も違えば、デスクも遠い。

おまけに松子は昔から人見知りで内向的。

学生時代、「松子だって松だよ松!名前昭和すぎ~!」と笑われたことが引っかかって、それ以来、人と関わるのが苦手だった。


それでも。

(せっかくの同期なんだから、仲良くなりたいのになぁ……)


そう思いながら歩いていたそのとき――


「にゃあ」


目の前に現れた一匹の猫。


うす茶色の毛並みとまんまるの黄色の目をしたその猫は、松子の前にちょこんと座り、じっと見上げてくる。


「……えっ、かわ……」


松子は思わず屈み込み、手を差し出す。

猫は逃げる様子もなく、スリッと身体を寄せてきた。


(な、なにこの子、なつっこい……もしかして飼い猫?)


松子は思わず笑顔になって、その猫をやさしく撫でていた。


──そして翌日も、またその次の日も、

昼休みになるとその猫は現れた。

まるで松子のランチタイムを待っていたかのように。


松子はコンビニでお昼を買ったあと、そのコンビニの近くにある公園のベンチで食べるようになった。


「うーん……やっぱ話しかけるなら、帰りのタイミングかな……でも、すれ違うのもタイミング難しいし……」


そんな風に、松子は猫に“相談”するようになっていった。



---


あずは、朝からお弁当作りに励んでいた。

いつも自作弁当を作って少しは節約しようと、入社当時から続けている。


「今日は卵焼き〜!」


その声を聞いていたぴよは、突如テーブルにぴょんとジャンプ。


「ちょ、ちょっと、ぴよ!?ダメだってばっ…!!」


ぐらっ──


お弁当箱が揺れた瞬間、ぴよの前足があたり、箱が床に落下。


「あーーーーーっ!!!」

「ぴよー!!なにしてんのもう!!」


ぴよはしれっと前足で顔を洗っている。


「……もうー!時間ないのに!いい!今日はコンビニで買う!!いってきます!」


慌てて落ちて散らばった弁当を片付け、支度を済ませて出かけるあずの背中を、ぴよはじっと見つめていた。

その目が、またほんのりネオンに光る。



---


──昼休み。


松子はいつものように、猫との再会を楽しみにしてコンビニ前へと歩く。

すると、やはり今日もぴよが姿を現す。


「ふふ、今日も来てくれたんだね。えらい子〜」


そう言って撫でていたその時。


ぴよの目がふわっと黄色のネオンに光り、突然くるりと振り向き、走り出した。


「えっ?」


その視線の先には、コンビニへ向かって歩くあずの姿。


「……あっ」


松子が驚いて声を上げる間もなく、


キキィィィィィィ――!!!


猛スピードで走ってくるバイクが、ぴよの進路へと向かってくる。

ぴよは目を見開いた。


「危ないっ!!」


松子は咄嗟にぴよを抱き上げ、ギリギリのところで避ける。


ぶぅぅん……とバイクが通り過ぎた直後、


「えっ!?大丈夫ですか!?今のバイクひどいですね…!!え!?ぴよ!?どうしてここに…!?窓開けられないはず…」

あまりのバイクの勢いに、思わずあずは松子の元へ駆け寄った。

家にいるはずのぴよの姿を見て、あずは声をあげる。


「安部さん、だよね?同期の…!あの…ありがとう!ぴよ助けてくれて…!!」


松子は、驚きながらもぴよを胸に抱えたまま、そっと頷く。


「う、うん……この子、田代さんの猫ちゃんだったんだ……?びっくりしたけど、ケガなくて良かった」


ぴよは松子の腕の中で、顔を洗いながら嬉しそうににゃー!と鳴いた


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