第3話:ディンギル体術誕生の章

 天才カイ・キアグとの圧倒的な実力差を前に、ジド・クルガルは自らの限界に直面していた 。ただ闇雲に鍛錬を重ねるだけでは、決してあの高みには届かない。その苦悩の中から生まれた「自分だけの動きを見つけ出す」という渇望は、彼を新たな探求の道へと導いた 。その鍵を握っていたのは、聡明な巫女見習いアーマ・エレシュだった 。


 彼女から授かった人体の知識は、ジドの脳裏に眠っていた扉を次々と開いていった。だが、それだけでは足りない。体の動かし方の「ことわり」は見えてきたが、その動きを生み出す源泉、内なる力の『質』そのものが、カイや師ザンガとはまるで違うのだ 。


「もしかしたら、星の動きそのものを模倣もほうすることで、全く新しい、俺だけの体の使い方を見つけられるんじゃないかって……」


 その突拍子もない着想を、アーマは真剣な眼差しで受け止めた 。二人の秘密の探求は、神殿の屋上、満天の星空の下へとその舞台を移す 。アーマが紡ぐ星々の神話と、その運行の法則。ジドは、その一つ一つの言葉から、自らが求める武術の核心となる「ことわり」を見出していく 。羊飼いの守護星ドゥムジが描く、揺るぎなく安定した円弧の軌跡。愛と戦いの女神イナンナの星が見せる、予測不能で変幻自在な動き。人体の神秘と、星々の神秘。二つの異なる理が、二人の対話の中で、一つの確かな形を結び始めていた 。


 互いの知識と感性をぶつけ合う濃密な時間は、二人の魂を静かに、しかし確実に惹かれ合わせていった。ある夜、突然の雨に降られ、狭い物見台で雨宿りをすることになった二人。雨音だけが響く空間で、互いの息遣いを感じるほどの距離に、ジドの心臓は激しく高鳴った 。


「……俺は……守りたいんです。故郷の父さんや母さん、妹のリーラ……神殿で出会った仲間たち……そして、アーマさんを……!」


 思わず口をついて出た本音に、アーマは驚きながらも、その瞳に慈愛に満ちた柔らかな光を宿した。その頬は、雨に濡れたせいか、ほんのりと赤く染まっているように見えた 。互いの過去を知り、未来への想いを分かち合うことで、二人の絆は友情を超えた、特別なものへと深まっていく 。


 しかし、彼らが星々を見上げているその裏で、ウルクの平和を脅かす「東方の闇」は、確実にその輪郭を現し始めていた。アッダール神官長は、東のラガシュとの境界付近で急速に力をつける所属不明の武装集団――「武装国家マシュクル」の脅威を警戒し、ザンガたちに若者の育成を急がせる 。そして、ウルク郊外の運河掘削現場では、囚われの盗賊ギザルの元へ、兄である首領ラハムからの「必ず助け出す」という復讐の伝言が届けられていた 。


 ジドの探求にも、新たな壁が立ちはだかる。星々の動きを取り入れた彼の動きは、確かに以前より滑らかになった。だが、敵を打ち倒すための決定的な「一撃の重み」が伴わないのだ 。その答えを、アーマが神殿の古文書庫で発見する。それは、忘れ去られたように埃を被っていた一枚の古い粘土板に記された、失われた「魂の呼吸法」の記述だった 。


『……深く永き清浄せいじょうなる息吹にて魂魄こんぱくを練り磨くべし。しかするとき、人の内に眠る神々の力、星の如く目覚めん……』


 二人は再び力を合わせ、その難解な古文書の解読に没頭した 。そしてついに、その核心――自らの体を一個の小天球と化し、天空の息吹を取り込んで体内で力を循環させ、極限まで練り上げる、神業とも呼ぶべき呼吸法の輪郭を掴み取る 。


 ジドは、来る日も来る日もその呼吸法の鍛錬に打ち込んだ。何度も失敗し、心が折れそうになりながらも、彼は粘り強く続けた。そして数週間後、彼の内で何かがカチリと噛み合った。体の中心から温かく力強い何かが湧き上がり、手足の先まで満ちていく。彼の動きは、以前とは比べ物にならないほど力強く、安定し、そして速くなっていた 。


 その成果は、数日後の組手訓練で示された。相手は、以前は勝つこともままならなかった同室のイエルム。イエルムの鋭い突きを、ジドは柳のように軽やかなかわせる。そして、相手が体勢を立て直そうとする一瞬の隙を突き、短い呼気と共に左の拳を相手の胸元へと叩き込んだ 。


「ぐほぉっ……!?」


 強烈な衝撃に、イエルムは言葉にならないうめき声を上げて崩れ落ちた 。訓練場が、水を打ったように静まり返る。以前の不器用だったジドを知る仲間たちは、その信じられないほどの変貌ぶりに言葉を失っていた。そして、カイ・キアグは、その光景を呆然と見つめていた。その表情には、いつもの自信に満ちた笑みはなく、驚愕と、強烈な焦りの色が浮かんでいた 。


 ジドは、アーマと共に、自らが編み出した新しい武術の理論と型を、一枚一枚、粘土板に刻み込んでいく作業に没頭した。そして、アーマの問いかけをきっかけに、その武術に名を授ける。


「……『ディンギル体術』。神々の体術、と呼びたい」


 ディンギル――それは、神々、あるいは天に輝く星々を意味する古代の言葉 。星々のことわりから生まれ、神々の息吹をその身に宿す、彼の武術にふさわしい名だった 。


 その新武術の真価を問うため、アッダール神官長の御前で、兄貴分のバル・スムンを相手に模擬戦が行われることになった 。


「手加減できないぜ?」


 バルの飄々とした言葉とは裏腹に、その瞳には真剣な光が宿る。合図と共に、バルの経験に裏打ちされた無駄のない攻撃がジドに襲いかかった。ジドは、いにしえの呼吸法『ジ・ムル・アラアンナ(天象星巡呼吸法てんしょうせいじゅんこきゅうほう)』で体内に力を巡らせ、星々の動きを模した流麗な動きでそれを受け流す 。


(通用する……! でも、バル様の力にはまだ……!)


 じりじりと押され始めたジドは、極限まで集中力を高めた。その脳裏に、夜空の星々の光景が広がる。揺るぎない北の星マルギッダの安定性、獲物を狙う鷲座アンズーの鋭さ。彼は大地に軸を定めると、コマのように高速で回転し、その勢いで強烈な肘打ちをバルの脇腹に叩き込んだ 。


「『クシュ・ムル・ガズ(星砕肘せいさいちゅう)』!」


「ぐっ……! なんだこの衝撃は……!?」


 予想外の威力に、バルが体勢を崩す。その隙を、ジドは見逃さなかった。金星の如き変幻自在の足捌き『ムル・ルル・アラム(幻惑妖星象げんわくようせいしょう)』でバルの死角へ移動し、さらなる追撃を加えようとした、まさにその瞬間 。


「――そこまで!」


 アッダール神官長の鋭い声が響いた。


 神官長は、満足げに、しかし厳しい表情を崩さずに頷くと、宣言した。


「見事だ、ジド・クルガルよ。その『ディンギル体術』、確かに古武術の域を超えた力を持っている。これより、エアンナ神殿の正式な武術の一つとして認める!」


 ジドの心に、大きな達成感が込み上げてきた。だが、その裏で、マシュクルの脅威は刻一刻と迫っていた。神官長は、運河掘削現場の警備を強化し、マシュクルの襲撃に備えるよう、ザンガとバルに密命を下す。ウルクの未来を賭けた、最初の大きな戦いが、今まさに始まろうとしていた 。

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