第2話:試練と出会いの章

 故郷ルース村を後にして数日、過酷な一人旅の果てに、ジド・クルガルはついに聖都ウルクの巨大な城壁の前に立っていた。村の柵とは比べ物にならない威容、喧騒と活気が渦巻く城門。何もかもが、彼の知る世界を遥かに超えていた。人の波に圧倒されながらも、彼は固く決意を胸に、天を衝くようにそびえ立つ聖塔ジッグラト――エアンナ神殿を目指した。


 神殿の門前で、ジドは長老ウルバから託された紹介状を震える手で門番に差し出した。農夫の少年が神殿に仕えたいという申し出は訝しがられたが、長老の名が彼に道を開いた。門の内側は、外の喧騒が嘘のような、静謐で荘厳な空気に満ちていた。案内された受付には、ジドと同じように見習いを志願する十数名の少年たちが、緊張した面持ちで並んでいる。その中で一人、ジドはひときわ異彩を放つ少年の存在に気づいた。


「よう、新入り。ずいぶん緊張してるみたいだな?」


 明るい茶色の髪に、自信に満ちた瞳。ジドより一回り大きく、がっしりとした体つき。他の者たちとは明らかに違う、余裕に満ちた態度。彼こそが、ジドの生涯のライバルであり、後にかけがえのない親友となるカイ・キアグだった。


「俺はカイ・キアグ。お前はジド、だったか? よろしくな!」


 屈託なく笑いかけるカイの馴れ馴れしさに戸惑いながらも、ジドはこの見知らぬ場所で初めて声をかけてくれたことに、かすかな安堵感を覚えていた。


 神殿での生活は、ジドの想像を絶する過酷さで幕を開けた。夜明け前の角笛の音と共に叩き起こされ、中庭に集められた新入り見習いたちの前に現れたのは、あのルース村を救った「響天の戦士」、ザンガ・アプスその人だった。


「今日から貴様らを鍛える、ザンガ・アプスだ。ここでは、神殿に仕える者としての『力』と『規律』、ただそれだけを、骨の髄まで叩き込んでもらう」


 その低く、腹の底に響く声と、全てを見透かすような鷲のごとき眼光だけで、見習いたちの体は凍りついた。最初の訓練は、あまりにも過酷なものだった。巨大なジッグラトの周囲を、日が真上に昇るまで走り続けるというのだ。体力には自信があったジドでさえ、灼熱の太陽と終わりの見えない距離に意識が遠のきそうになる。次々と脱落者が出る中、ジドは故郷に残してきた家族の顔を思い浮かべ、歯を食いしばって足を前に運び続けた。そんな彼の横を、カイは涼しい顔で追い抜いていく。


「おいおい、ジド、もう終わりか? そんな亀の子の歩みじゃ、日が暮れちまうぜ!」


 圧倒的な体力差と、カイの挑発的な言葉が、ジドの負けん気に火をつけた。


 走り込みが終わっても地獄は続いた。受け身の訓練で何度も硬い地面に体を打ち付けられ、構えの訓練では微動だにせず立ち尽くすことを強要される。全身はあざと土埃にまみれ、筋肉は悲鳴を上げていた。そんな厳しい訓練の合間、ジドは中庭の向こうを歩く、白い清浄な衣をまとった二人の巫女見習いの姿を目にする。そのうちの一人、長く艶やかな黒髪を持つ、落ち着いた雰囲気の少女の知的で涼やかな横顔が、彼の心に強く焼き付いた。


 その日の訓練の終わり際、組手の練習でジドは肘を強く打ち付け、血をにじませてしまう。宿舎へと引きずるような足取りで戻ろうとする彼の背に、穏やかな声がかけられた。


「あの……少し、よろしいですか?」


 振り返ると、そこに立っていたのは、昼間見かけたあの黒髪の巫女見習いだった。


「肘を怪我されていましたよね? もしよろしければ、手当てをさせていただけませんか?」


 彼女の名はアーマ・エレシュ。その澄んだ声と、気遣いに満ちた優しい眼差しに、ジドは気圧され、しどろもどろになる。アーマはそんなジドを医務室へと導き、手際よく傷の手当てを施してくれた。薬草の清涼な香りと、彼女の指先から伝わる温もりに、ジドの心臓は激しく高鳴った。


「ザンガ様の指導は、皆さんの命を戦場で守るための、尊い教えのはず。どうか、くじけずに頑張ってくださいね。私も、陰ながら応援していますから」


 アーマの言葉は、ジドの疲弊しきった心に、温かい光を灯した。


 神殿での訓練が始まって約一ヶ月。見習いたちの間にも実力差が見え始め、その中でカイの才能は突出していた。そして、ジドにとって最初の、そして最大の試練が訪れる。ザンガに命じられた、カイとの組手だった。


「手加減はなしだぜ、ジド?」


「望むところだ」


 合図と共に、カイが動いた。ジドが反応するよりも早く間合いを詰め、鋭い突きを繰り出す。ジドは必死で応戦するが、カイの動きは水が流れるように滑らかで、一切の無駄がない。突きを弾けば蹴りが入り、拳を繰り出せば空を切る。なすすべもなく翻弄され、あっという間に首元に手刀を突きつけられていた。


「へへ、悪いな、ジド。ちょっと本気出しすぎたか?」


 悪びれもなく笑うカイの言葉が、ジドの打ちのめされた心をさらに深くえぐった。悔しさ、惨めさ、そして圧倒的な才能の差を前にした絶望感。


(なんでだ……なんで俺は、必死でやってるのに……全然ダメだ……)


 その日の訓練が終わった後も、ジドは一人、訓練場の隅で教わった型を繰り返していた。ただがむしゃらに訓練するだけでは、カイには追いつけない。何かが足りない。何かが、根本的に間違っている。


(そもそも、ザンガ様から教わっているこの技は、本当に『俺にとって』一番効率的な動きなんだろうか? もっと、自分に合った、無理のない、それでいて相手を確実に制することができるような動きがあるんじゃないだろうか?)


 その師に対して失礼とも言える疑問こそが、後に神話となる「ディンギル体術」創始への、最初の扉だった。だが、答えは見つからない。途方に暮れるジドの前に、飄々とした雰囲気の兄貴分、バル・スムンが現れた。


「よう、ジド。さては、カイにでもコテンパンにやられたか?」


 バルは、まるで全てを見ていたかのように言い当て、ジドの隣にどっかりと腰を下ろした。


「確かにカイの奴は天才肌だ。だがな、ジド。お前にはお前の武器がある。一つのことを、その本質が見えるまでとことん深く掘り下げて考えようとするその探求心。それは、カイの奴が逆立ちしたってかなわない、お前の圧倒的な才能だ。焦るな。人と比べるな。お前は、お前の土俵で戦えばいい」


 バルの言葉は、ジドの心に深く、温かく響いた。人と比べて落ち込むのではなく、自分自身の成長に目を向けろ。自分だけの道を進め。その言葉が、焦りと劣等感に曇っていた彼の目に、新たな光を灯した。


(体の仕組みを知りたい。骨の動き、筋肉の繋がり……そういう根本的なことを理解しないと、俺はこれ以上先に進めない。そうだ……アーマさんなら……!)


 ジドの脳裏に、アーマの聡明な瞳が鮮やかに浮かんだ。彼女なら、きっとこの疑問に答えてくれる。ジドは意を決し、訓練場の前を通りかかったアーマを呼び止めた。


「アーマさん! 教えてほしいんです! どうすれば、もっと上手く体を使えるのか……体の仕組みについて、詳しく知りたいんです!」


 ジドの必死な想いを受け止めたアーマは、驚きながらも、その瞳に深い理解と関心を宿し、優しく微笑んだ。


「分かりました、ジドさん。あなたのその熱意、私にはとてもまぶしく感じます。私でよければ、喜んで協力させていただきます」


 その言葉は、ジドにとってまさに天啓だった。翌日から、神殿の医務室で、二人の秘密の探求が始まった。アーマは、神殿に伝わる古い粘土板や簡単な模型を使い、人体の骨格や筋肉の構造、そして急所の位置といった、ジドが渇望していた知識を、一つ一つ丁寧に教えていった。


(なるほど……! だからザンガ様は、俺の動きが硬いって言ったのか……! 無駄な力が入ってたんだ!)


 ジドは、アーマの説明に、まるで長年閉ざされていた脳の扉が次々と開かれていくような、鮮烈な衝撃と興奮を覚えていた。闇雲に力を込めるのではなく、体のことわりを理解し、効率的に動かす。その知的な探求は、彼の心に確かな希望の光を灯した。そして、知識を惜しみなく分け与えてくれるアーマの聡明さと優しさに、彼は尊敬以上の特別な感情を抱き始めていた。開かれた知の扉の向こうに、まだ見ぬ無限の可能性が広がっているかのようだった。

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