第10話 王女の想い人

 桐己王女は、巌総領家の中にある、最も日当たりの良い部屋に移された。

 建物2階のこの部屋は、重要な人物を匿う際に使われる部屋で、屋敷の中に存在していながら、屋敷の中からこの部屋に入る事は出来ない構造になっていた。

 

 一見すると何でもない、庭の片隅の農機具小屋から、庭を間地切っている壁の中の通路を通ってしか、出入りが出来ない。隠れた部屋でありながら、大きく設えられた立派な出窓があり、窓辺に近付き過ぎなければ、中の様子は見られない。その上、この部屋からは、接客の間をのぞき窓から覗くことが出来た。話を聴く事も。

 

 その特別な部屋に、巌家に代々仕えてきた医者が、貼り付いた。付き切りで看病しているのは、 崑国の国王と王妃の娘、桐己王女だ。


 医者は、厳しい顔で、密やかに可貫に報告した。

「全身の状態から見て、芳しくありません。既に3日程、尿が出ていないそうです。恐らく、尿を出なくする薬剤を、食事やお茶にでも混ぜて、多量に摂らされたのでしょう。……今日中に少しでも出てくれれば、持ち直せるはずです。」

「……随分苦しがっているが、少しでも楽に出来ないのか?」

「利尿作用のある薬を、服用頂いています。そして、水分を積極的にお飲み頂いております。後は、体が冷えないようにして、待つしかありません。」

「必ず、お助けしてくれ。頼む。」

可貫にそう頭を下げられて、医者も心から、礼を取った。

「そのように、尽力しております。」

 王女の顔色は悪く、脂汗をかきながら、体の向きを度々変えていく。同じ姿勢で居られない程に、状態が悪いのだ。

 それでも、泣き言一つ言わず、時折涙が目尻を濡らすが、泣き声を上げずに耐えている姿は、余りにも痛ましかった。


「あっ」

王女がふいにそう声を上げた。次の瞬間、激しく嘔吐した。吐しゃ物が寝台を汚す。 控えていた侍女が、王女の髪を後ろに持ち上げて、背中をさすった。

 医者が、持っていた器で次の吐しゃ物を受け止めた。

 息をする間も無いような間隔で、嘔吐が続いた。たいそう苦しい様子で、涙を流しながら、嘔吐している。


 ひとしきり、嘔吐してから、王女は恥ずかしそうに、言った。

「ごめんなさい。濡らしてしまいました。」

「???」

皆が、王女の下半身に目を向けると、お尻にシミが出来ていた。嘔吐していた時の腹圧で、失禁してしまったのだ。

「良かった!!出ましたね!!」

医者が満面の笑みで、誉めた。

 王女は、寝台を汚した事を恥じているのだが、周囲が喜んでいる事に面食らったように、目を丸くした。

「これで、良くなりますよ!!悪いモノは吐いたし、出たし!!」

吐しゃ物で満杯の器を振り上げんばかりに喜んだので、可貫がその器を取り上げた。


 侍女が、王女の髪から手を離し、可貫から器を受け取って、

「本当に、良かったです。……体をきれいにする準備をしてきます。男性は、部屋から出てください。」

侍女は、可貫と医者を部屋から廊下に追いやった。

 廊下に出てから、侍女は、2人をキッと睨んで

「お湯を持ってきます。その間、こ・こ・で、様子見ててください。」

憮然とそう言うと、小走りで離れて行った。 


 この侍女、小さい体に見合わぬ力持ちであった。

 前々から、かなりの力があると見ていたが、なんと今は、一人で金属製の風呂用の浴槽を頭上に捧げ持って戻って来た。

 その後ろから、両手に湯を張った大きなバケツを下げた、貫凱を連れていた。

 その浴槽の重さを知っている、可貫と医者は、目を丸くした。


「お医者様、扉を開けてください。」

「あ、はい。」

 侍女に急かされて、医者は言われた通りの動きをした。

 浴槽を頭上に持った、侍女の姿を、王女もマジマジと見た。再び目がまん丸だ。

 実に、子供らしい瞳の輝きだった。

 

 侍女は、皆が注目する中、コトリと静かに、浴槽を床に置いた。

「すごいね、お前。どんな筋肉してるの???1回見せて。」

「嫌です。お前呼びは止めてください。絹静(ケンジョウ)です。」

医者のぶしつけな要望を、侍女はぴしゃりと退けた。

「貫凱様、お湯を入れてください。」

「あ、はい。」

思わず、可貫の弟の貫凱も、侍女が言う通りに動いた。

 貫凱も武人である。可貫程ではないが、上背もあるし、可貫程ではないが強面の顔である。その貫凱が、侍女の手伝いをしている。

「先程向こうで、絹静に合って。で、お湯が必要だから、持って欲しいと頼まれたんだ。……風呂場の浴槽、持ち上げたのには、驚いたよ。……俺より強い。」

 その言葉で、一同納得した。貫凱は、自分より強い絹静には逆らわないのだと。


 お湯の量はまだ少ないが、とりあえずは、入浴は出来る。

 再び男共を部屋から追い出した絹静は、手早く王女を湯に漬けた。その上で、寝台の寝具を小脇に抱えて、2つのバケツをがらがらいわせながら、部屋を出た。

「見張りをお願いします。覗かないでくださいよ。」

そう言い置いて、小走りに駆けて行く。

 

 そうして、戻って来た彼女の姿を遠目から見た一同は、再び度肝を抜かれた。

 何と、彼女は、湯を張った大きなバケツを両手に持ち、更に頭の上にも同じバケツを載せていたのだ。(頭上のバケツは敷物を畳んで被ってから載せているが)

 しかも、どのバケツの湯も溢した痕跡がない。

 絹静は、食いしばった歯の隙間から言った。

「早く、扉、開けて。」

 慌てて、貫凱が走り寄って、飛びつくようにして頭上のバケツを引き受けた。

 医者が、扉を開けた。

 

 寝台で眠る、王女の顔色は、見違える程に良くなった。

 今は安らかな寝息を立てて眠っている。まだ幼さの残る、あどけない姿だった。

 髪色は、赤毛の混じった亜麻色の巻き毛で、父親の国王譲りだ。頬に少しそばかすがある所まで父に似ている。つぶらなまあるい目は、母の王妃に似て、瞳は濃い茶色をしていた。



「峠は越えました。正直、一時は危ういと思いました。ここに来るのが後1日遅かったら、恐らくもう手遅れでした。

……それにしても、こんな幼い同母の妹に、こんな仕打ちが出来るとは……。」

医者は、小声で可貫にそう言った。

「歪んだ教育とは、恐ろしいものだな。血族こそ、助け合わねばならないものを……。自分を真に害する者が誰か、分からない者は自ずと滅びる。」

可貫の静かなその言葉に、その場に沈黙がおりた。


 王女が快方に向かうと、住まいは、更に安全な場所に移された。そこは、『聖国教修道会』の修道女が住まう宿舎だ。

 表向きは、崑国聖国教の修道場をうたっているが、実は崑国が興きる以前から、この地に根付いていた宗派の教会であった。宗主は巌一族の者。すなわち、巌一族の守護する修道会であった。

 修道主も、巌一族の者が勤めている。

 修道士に守られた、修道女の住まいは、あらゆる面で安全な場所であった。

 

 その修道場の建物は、表は教会であったが、隠された裏側は堅牢な要塞となっていた。その裏側の堅牢な要塞を管理し、修道士に武闘を仕込むのは代々の巌総領家の第二子。その要塞から地下通路で繋がる帝都側の屋敷に住んでいる。

 有事の際は、その通路を通って修道士が教会を守り、避難して来た住民を守るのだ。それが、代々巌総領家の第二子が担って来た役割であった。

 

 修道場の始まりは、崑国建国時に、戦乱の最中に路頭に迷った子女を修道会の修道女達が匿い、養った事から派生している。彼女達の尽力に、修道士達も結束し、住民を守った。その行いで、崑国の基盤が整っていったのだ。


 修道会の教会の最奥では、農耕が行われている。

 主食の穀物以外の主だった作物は、修道会の敷地内で収穫出来た。敷地内に2箇所井戸が掘られ、水も確保されていた。

 冬用の薪や、灯り用の油類についても、十分備蓄されている。万一籠城の必要がある場合を見越して、1年間程度は快適に過ごせる程に準備されていた。


 桐己王女は、自分の足で歩いて、聖国教修道会の修道女の住まいに移って来た。

 

 巌家の屋敷前に止まった馬車から降りる際は、男子の格好をしていた。巌家に入ると、そこには巌 貫凱が出迎えの為に待っていた。

「桐己王女殿下。お待ちしておりました。私は、巌総領家の次男、巌 貫凱と申します。以後、お見知りおきください。」

貫凱は、そう言って、王女の前に膝を折った。王女が右手を差し出すと、その指をそっと左手で包み込み、指に口付けた。 

 

 王族の女性に対して行う礼儀の、指への口付け。だが、桐己王女にとって、貫凱から受けたその行為は、心が震える程に嬉しいものだった。

 

 桐己は、王族とはいえまだ幼く、王位を継ぐ兄が既に居て、臣下に下賜される定めに生まれた女児であったので、皆からの扱いは軽かった。

 その境遇を、よく理解している積もりで育った桐己だったが、心のこもった礼儀かどうかは、自ずと伝わる。

 貫凱程に丁寧な礼を受けた、前例が思い浮かばない位に。

 

 まだ幼さの残る桐己王女は、この1度の指への口付けで、逞しい青年の貫凱の事を、好ましく思ってしまった。


 だが、王家に生を受け、下賜される桐己王女は、巌家が王家と婚姻の縁を結ばない理由を知っていた。母から、巌家とのいきさつを言い含められていたから。

 

 誰にも打ち明けてはいけないこの想いは、そっと胸の奥にしまい込む決意をした。


 桐己王女は、巌家の客間で、男装を解き、準備されていた修道女の見習いの衣装に着替えた。同じような衣装を着て、桐己の世話をかいがいしく行っているのは、あの力持ちの侍女だった。

 

 この侍女、絹静の怪力がなければ、、今回のように安々と桐己王女を王宮から救い出すのは難しいかったであろう。

 心根も優しく、気が利いていて余分な事は言わない。栗色の髪と瞳は愛らしく、小柄な体に細い手足。少し茶色見を帯びた肌には、長年鉄枷で負った擦れた痣が、手首と首に消えずに残っていた。

 その痣について、桐己は一切詮索しなかった。

 

 かいがいしく介抱してくれる事に対して、心から礼を伝え、真心を込めて言葉をかけた。そしてやっと、絹静は桐己に笑顔を向けるようになったのだ。


 貫凱も、絹静に優しかった。医者も。

 医者は、絹静のひと睨みで、いつも軽口をつぐんだ。医者と絹静とのやり取りに、何度噴き出して笑った事だろう。

 

 修道女の修練の場に、出自は持ち込めない為、同じ見習いの服装で居るが、明らかに桐己の侍女として、絹静は動いてくれている。

 そんな絹静に、桐己は

「共に、学べる事を、嬉しく思います。文字を、お教え出来ます。崑国語も、隣国の文字も。

そして、私にあなたの髪を結わせて欲しいの。いつか、わたしの子供の髪を結いたいから、私の練習台になってね。」

そう、お願いをしたら、絹静は、震えながら涙をこぼした。


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