31:42:13

しちめんちょう

第1話 時間が速くなる

時間が速くなった――と、彼らは口々に語った。


それは病気でもなく、老化の兆候ちょうこうでもなかった。

ただ、眠って目覚めるたびに、まるで一日が数秒ずつ短くなっているような感覚。


朝の光はいつもより鋭く差し込み、コーヒーの香りはあわかすみ、食事が終わるまでの時間が急ぎ足で過ぎていく。

会話の余韻よいんは追いつかず、心はいつも少し焦っているようだった。


記憶は確かに蓄積ちくせきされ続けている。

だが、どれほどの知識や経験を得ても、心はその速度に追いつけない。


『時間加速度障害(Time Acceleration Syndrome――通称TAS)』


最初はただの比喩ひゆだった。

誰もが感じていた「時間の速まり」を表現した言葉。


しかし、やがてそれは単なる比喩ではなく、

全世界で“主観的時間しゅかんてきじかん圧縮あっしゅく”を訴える声が急増し、

やがて「疾患しっかんではなく、未知の現象である」と公式に認定された。


科学者たちは躍起やっきになって原因を探った。

脳の構造を詳細にスキャンし、感覚器の反応を細かく分析した。

だが、身体のどこにも異常はなかった。


それなのに、人々は言い続けた。


「昨日よりも今日のほうが、時間が速くなっている」

「このままでは、何も終わらせられない」


永遠に近い時間を生きる身体を持ちながら、

時間だけがどこかへ先にってしまう、そんな不思議な感覚。


その報告書を読みながら、レイカ・アマリリス博士は静かに机の前で沈黙し、彼女の目は、S.G.O.の観測ログに映る数字に釘付けになっていた。


なぜなら、その中にある一つの数値の“変化”が確かに記録されていたからである。


それは測地線そくちせんの“傾き”。


時間軸そのものが、確実に、しかしゆっくりと、


つまりこの宇宙は、知らぬ間に、時間の中心に向かって、ゆっくりと――


---


S.G.O.──Spacetime Geodesic Observer《時空測地線観測機》。

時空の測地線、つまり時間と空間がどのように「曲がっているか」を観測するための最先端装置さいせんたんそうちである。


この装置は、宇宙の時空のゆがみを詳細に計測し、どこへ“落ちていこうとしているか”を示す指針ししんだった。


レイカ・アマリリス博士は、日常的にその観測ログを細かく眺めていた。

時間軸のわずかな傾き、空間歪曲くうかんわいきょく微細びさいな分布、エントロピーの微妙びみょうな増減──

これらは、かつての人類が到達した不老不死の時代においては、

単なる趣味のような存在であり、古びたアナログの香りをただよわせる“趣味のデータ”にすぎなかった。


しかし、ある日。


レイカの目の前に表示された一行の数値が、

その長らく放置されていた“趣味”を、世界の中心へ引き戻した。


『観測値 Δτ/Δλ = 0.999999 → 0.999994』


たったそれだけの微小な変化。

だが、その変化は決定的な意味を持っていた。


それは、「時間が単純に直線的に進んでいない」ことを示していた。


レイカは静かにつぶやいた。


「落下している……」


時間はただ単に進むのではなく、

まるで重力に引かれるように、

“曲がった空間の一点に向かって、落ちている”。


彼女はすぐさま、過去数世紀分にさかのぼり、

空間の変形モデルと時間軸の傾斜角度けいしゃかくどを過去の観測データに適用し、シミュレーションを走らせた。


結果は、驚くべきものだった。


この宇宙の「時間」は、

確かな一点――つまり、

ある“中心点”に向かって、加速的に吸い寄せられていたのだ。


まるでブラックホールの、事象じしょう地平線ちへいせんへ落ちる物体のように。


「……中心に、いったい何があるの?」


レイカは誰にともなく問いかける。

だが、隣にいるAI記録者のソラは答えなかった。


観測対象が光速に近づくにつれ、

その向こう側は完全な**“観測不可能領域”**として定義されていたのだ。


「落ちていく時間の先に、果たして“未来”は存在するのだろうか」


レイカの背後では、静かに無音のアラートが点滅し始めた。


それは、世界の時間地図じかんちずが、

新たな曲率きょくりつを持って“再描画さいびょうが”されたことを告げていた。


時間地図──それは時空の“現在の形”をビジュアル化したものである。


空間と時間がどのようにゆがみ、どこに重力の“落下先”があるのかを示す、

宇宙の動きを把握はあくするための最重要ツールだった。


時間地図には、時空の曲率きょくりつが色と線で表され、

その中心に向かって収束する複雑な測地線の流れが描かれている。


「この地図が再描画されたということは……」


レイカは静かに言った。


「宇宙の時空構造が、大きく変わった…。」


そして、時間軸の傾きと空間の歪みは、

これまでにない加速で中心点へ向かっていることがはっきり示されていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る