第2話 水面に映る
出陣するだけなのに、大袈裟な儀式やら意味の無い取り決めが多すぎるのである。
「孫権殿はあの若い身で孫家三代の思いを引き受けてこの大きな戦に挑まれようとしている。それがどんなに重くて負けが許されぬものか、私は誰よりも理解しているつもりだ。
……だから殿の前に立つ時は私自身が常に完全の状態でその身を支えられるような状態でなくてはならない」
周瑜の両の拳が握られるのを虞翻は見ていた。
周瑜はしばらくして表情を緩め、虞翻の方を見る。
「私がそう出来るように、お前にはその為の手助けをしてほしいのだ」
孫家にも呉にも何か特別な思いは持ったことはなかった。
たまたま呉に生まれついたからここにいるだけである。
流されるように全てを生きて来た自分とは全く違う。
側で従うようになって初めて、この周瑜という人間がどれだけ自分の意志で呉に身を捧げて来たか、それを目の当たりにする気分だった。
こんな人間もいるのか。
それが虞翻が周瑜に対して一番最初に思ったことだった。
周瑜が筆を置いたため虞翻は丁寧に書状を取り上げ台に置いて墨を空気にさらした。
それからすぐに薬湯を汲んで差し出す。
周瑜がそれを飲み干して椀を戻すと、丁度いい頃合いで冷たい布が額に当てられた。
周瑜は表情を柔らかくする。
虞翻は当初他人に無関心な男だと感じられたのだが、最近ではよく色々なことに気がつく男だと思うようになった。
確かに軍人というよりも医者にでもなった方がいい人間かもしれない。
「すまん」
虞翻は首を振った。
額にそれを当てて周瑜はしばらくの間、目を閉じていた。
建業を発ってから船で長江を下り【
実行部隊に任じられた
練りに練って、魏軍の進軍開始を見届けてからの夜襲攻撃、その戦闘開始の報せを受けた時点で周瑜はすでに船を再び進め始めた。
勝利を確信してのことだった。
黄蓋と甘寧の二人を投入して戦果を出せなければ、我が軍は終わりだと言っていたのを虞翻は聞いている。
それでもこれは勝てると確信を持てるだけの手駒が、周瑜の中にはまだあるのだと思った。
伝令が伝えて来る事細かなことにも、形式上聞いているだけで、勝利の報を受けた時もまた周瑜は顔色を変えずよし、と一つ大きく頷いただけだった。
すでに周瑜は出陣した呉軍全武将に対して、この
またその軍議の席には同盟関係にある
周瑜は稀代の軍師というだけではなく人格者だった。
……このところ虞翻はもう少し早くこの人に仕えていれば、と思うことがある。
それは色んな意味を含んでいたが、一番大きな思いだった。
周瑜に仕えるようになってから、まだそれほど時間は経っていない。
しかし一日仕える度に虞翻は周瑜への敬意の念を強くしていった。
「失礼を承知で申し上げます。まだ呉軍の全部将が集うまでには時間があります。……せめて三時間、軍議の前に休憩をお取り下さい」
周瑜がこういう進言に一度否と言えば、虞翻は二度と同じことを口にしないことにしていた。
幸い今は小さく頷いてくれた。虞翻は内心安堵する。
「軽い診察をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ」
周瑜は寝室に戻ると寝台に仰向けになり自ら着物も前を開いた。
そのまま眼を閉じている。
扉が開き誰かが入って来た。
「
虞翻の診察を受けている友にそれだけを言った。
周瑜は眼を閉じたまま軽く手を上げてそれに応える。
呉軍の重鎮で、今回の戦の後詰めを果たして魏軍を手筈通り長江の中流域、
彼が入城するなら周瑜は出迎えねばならない。
最後ということは夜半になるだろう。
診察を終えると虞翻は立ち上がる。
孫策が部屋に留まっていたので、自分はいない方がいいだろうと判断したのである。
一礼して退出の素振りを見せた虞翻に周瑜から声が掛かった。
「
「は」
「文を書いてほしいのだ」
虞翻は一瞬眼を瞬かせたのだが、すぐに頷いて墨と筆、そして布を持ち周瑜の側に机を寄せ座った。
「――――黄蓋将軍に」
墨に慣らしていた筆を思わず止めていた。
「本来ならば私が出向き直接話したい所だが私は今本営を離れることは出来ぬ。使者には孫策を向かわせる。文も任せたいが
孫策を見ると彼は苦笑したような顔で、しかし促すように頷いている。
文の相手が黄蓋、そして使者に孫策を出すとなればこれはただの文ではない。
虞翻はそう見抜いて、心を落ち着かせるように一つゆっくり息をつくと紙に向かい合った。
◇ ◇ ◇
やはり自分の凱旋を大事にしない為の計らいのようだった。
五十を越えた老将である。
しかし今だ身体には衰えたような所は一切無く精神もまさに鋼の、と言うべき猛将だった。
長く建業から離れながらも、呉軍の地の利である長江を魏軍の侵攻から守って来て、兵士達からの信頼も厚い。
間違いなく知勇備えた呉軍最高の武将と言って良いだろう。
黄蓋は孫策から渡された文にゆっくりと眼を通した。
彼が読んでいる間、孫策は無言だった。
――――やがて。
「若君は文をご覧になりましたか」
孫策を幼い頃から知っている黄蓋は親しげに声を掛けて来る。
「ああ全部読んだ。本当は
黄蓋は手を上げてそれを止める。
「若君がいらしたということは今、儂の目の前に周瑜殿がいらしたも同じことでしょう」
言いつつも無骨な笑顔を将軍は浮かべた。
「相変わらずですな貴方がたお二人は」
「?」
「覚えておられますか若君、貴方と周瑜殿はいつも教育係の眼を盗んでは勉強の時間を抜け出して城からお出になって……
「もう時効だぞ黄蓋、手を上げるなよ。お前の拳骨は親父の次に痛いから嫌いだ」
「陽が落ちるまで野駆けをして、長江のほとりで時間を忘れるまで語り合い剣を打ち合って……」
「楽しかったな」
「周りの人間はそれどころではありませんでしたよ。お二人のなさりようを見てそのうち姫もお転婆に輪が掛かってきましたからな。ご兄妹のうちで大人しかったのは
孫策は笑みだけでそれに応えてから、不意に真面目な顔になって黄蓋を見た。
「文の仔細は承知していただけたか、黄蓋将軍」
「
「理由はこの場では申せぬ。軍議の席で全て周瑜が明らかにするだろう。もし貴方が不審に思われた場合はこう言えと伝えられている」
「ほう。なんと?」
孫策は立ち上がり窓辺に立った。
片腕を失った彼の服の片方が大きく風に揺れる。
「…………はなむけ」
沈黙が落ちた。
孫策の背は微塵も動かない。
黄蓋は悠然と腕を組み、しばらく眼を閉じた。
それから不意に、ふっと笑い声を零す。
「そうやってお二人つるまれて、大人をからかう癖は変わりませぬな」
孫策が振り返る。彼の
「黄蓋。お前は呉軍最高の武将だ。
呉の水軍の出陣にはお前の誇るべき姿が有るのが一番相応しい。」
それは曹操本営十五万に対する逼迫したものになるだろう。
次の戦はすでに始まっているのだ。
初戦の実行部隊に立てられた黄蓋や甘寧に教えられた戦の詳細は、あくまでも初戦のものに留まっている。
黄蓋は思い出していた。
今回の初戦にあたって久方ぶりに
甘寧と共に船に乗り込み
長い黒髪を後ろで一つに結い、部屋着のまま港の一画に佇む姿を副官が見つけて報告して来た。
落ち着いた雰囲気で、そこに一人で佇んでいたのだ。
距離として、分からないだろうと思ったが一応、黃蓋は船の船尾に立ち、周瑜の方に一礼をしたのである。
その時――黄蓋の方を見ていた周瑜が一つ深く頷いたように見えたのだ。
……周瑜は何かを仕掛けるつもりなのだ。
あの強大な曹魏を相手に、本気で。
そしてその戦を前にして自分に
「周瑜殿が皆の前に凱旋を果たしてほしいなどと言って来るのは、ただごとではありますまいな」
「……。」
初戦の勝利で呉軍の士気はすでにあがっているのだ。盛大な凱旋など必要はない。
もちろんそれが分からぬ周瑜でもあるまい。
黄蓋は何かを感じ取った。
孫策の飾り気のない賞賛はそのまま、あの青年の気持ちなのだろう。
「了解いたした。夕刻入城いたす。と言っても、ならばそろそろ準備も始めねばな。周瑜殿がわざわざ場を設けて下さったのだ、バタバタと行っては本末転倒になる」
「ああ。俺は一足先に城に戻るぞ。南昌でな」
歩き出した孫策の背に黄蓋が声を掛けた。
「若君」
「ん?」
老熟の武将は頼もしい笑みを浮かべていた。
「あの方にお伝え下されい!
貴方が成そうとなさることならば、それを信じて成されよと。
貴方はそれを成す為にこの国に生まれたのだ。
儂は、どんなことでもそれを信じて支えよう。
大殿を支えたのと同じように」
孫策は背を向けたまま一つ息をついた。
それから前を見据えるとしっかりと頷き部屋を出て行く。
孫策と周瑜。
幼い頃から見守って来た二人だ。
どちらも立派になった、と黄蓋は思った。
◇ ◇ ◇
「
声を掛けた途端陸遜の手から椀が落ちた。
「あっ」
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「あ、いえ……大丈夫です。申し訳ない一瞬気を抜いていて」
気を抜いていた、と陸遜は言ったがそれは本当ではないだろう。
今の反応は惚けていた所に話し掛けられてという感じではなかった。
待っていたかのように振り返ったのを淩統は見たのだから。
陸遜が誰を待っているのかは、彼にはよく分かった。
「
「分かりました、今行きます」
淩統が去ると陸遜は扉を閉めてふぅ、と息をつくと剣を腰に下げた。
気を引き締めるように顳かみを押さえた時、後ろに気配を感じて振り返る。
「――
陸遜は窓辺に駆け寄った。
「よぉ、りく……」
甘寧が何かを言うよりも早く、陸遜の両腕が甘寧の首に回った。
陸家の当主として、年若くても自らの言動を固く戒めて日々を過ごしている彼が見せた、非常に珍しい、まるで子供のような歓迎の仕方に甘寧は一瞬言葉を失ったが、鼻先に触れた細い栗色の髪の感触に少し笑ってしまって、自分からも手を伸ばし陸遜の身体を抱きしめる。
周瑜と共に建業から来た陸遜は、表には出さないよう心掛けていたが、この初戦の行方が気になって仕方なかったのだ。
大きな戦の始まりで、この一戦によって今後の呉軍の策が大きく左右されるだろうと周瑜が言っていた為だ。
甘寧軍勝利の報せが届いた時、陸遜は眼を閉じて俯いた。
拳も唇も引き結び、そうしなければ周瑜の目の前で見苦しく大声で喜んでしまいそうだったからだ。
「よくお戻り下さいました、甘寧将軍……」
甘寧は小さく唇の端で笑った。
甘寧自身は今回の奇襲作戦は戦闘としては小さなものとしてか思っていない。
だが小さな勝利でも意味はとてもあるものなのだということは分かっていた。
大将首に拘らず、より多くの船を追い回して潰したのは、奇襲の戦果を誰よりも敵に感じさせる為だった。
陸遜はこの戦に対して周瑜がどれだけ心血を注いでいるかを側で見て来た。
そのことを、甘寧とも何度も話した。
周瑜の策を他の誰でもない、甘寧が守ってくれたことがひどく嬉しかったのだ。
「役目は果たして来たぜ。これからだけどな」
栗色の頭は頷いている。
「ありがとうございます……
今回のことで呉軍の士気は随分上がり、入城する時も甘寧軍には一際大きな歓声が掛けられたのだが、飾り気のない陸遜の一言は、そのどれよりも一番嬉しかった。
「俺が負けるとでも思ったのかよ?」
「貴方ならやってくれると思っていました。……でも、少し不安だった」
「てめえ」
甘寧が声を出して笑っている。
この人は本当に、どんな時も変わらないなと陸遜は思った。
「大一番の前ですから」
「お前だけはもっと俺を信じろよ」
甘寧は笑いながら陸遜の身体をそのまま引き上げ庭の方へ下ろす。
「じゃあ行くか。そろそろ黄蓋将軍のお出ましの時間だぜ」
「なんですかその言い方は……」
ようやく笑いながらも陸遜は隣を歩く甘寧を見上げると、二月ほど会わないうちに何かまた武将としての貫禄を備えられたなぁ……などとこっそり思っていた。
誇らしいような嬉しいような、何かくすぐったい気持ちだ。
何より、甘寧の顔を見るとやはり誰よりも安心した。
◇ ◇ ◇
夕刻の長江に太陽が沈んでいく。
左右に船の道を作りその間を一際大きな船がゆっくりと入城して来る。
城に集まっていた呉兵達からは大きな歓声があげられた。
蜀の
黄金の水面を悠然と過る船の舳先には黄蓋将軍の見事な姿が立っていて、それは曹魏軍がどんな大軍で押し寄せて来ようとも、孫呉のこの盾は決して砕けはしないと、全ての呉軍の将兵に思わせるものだった。
その入城の様子を
『信じて成されよ』
黄蓋の言葉はすでに孫策によって伝えられていた。
『どんなことでも――――貴方はそれを成す為に生まれたのだ』
老将らしく頼もしい、労りに満ちた強い言葉だった。
それを周瑜はとても有り難いと思い、黄蓋を見つめる心の奥で彼に感謝の言葉を贈った。
こほ、と一瞬胸に何かがつかえたが、その時後ろから手が伸び周瑜の肩に触れた。
孫策だった。
周瑜は眼を閉じてから微かに笑い、そして今度は眼を見開いた。
黄金色の光を貫いて、遠く近づいて来る藍色の闇を、強く見据えている。
呉兵の歓声が暮れる天に
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