花天月地『赤壁の戦い』

七海ポルカ

第1話 金色に負うもの


 対岸遠くに魏の大船団の一画が見えた。

 陸伝いに船を連結し、まるで陸地のような光景を生み出している。

 高台からそれを見つめる者達がいた。

孔明こうめい先生、それ以上進まれると危ないですよ」

 先程から心配そうに崖の上に立つ諸葛亮しょかつりょうの背を見ているのは、彼の弟子である姜維きょういであった。


 黒い衣を羽織った諸葛亮はもう少し……と言いながら更に崖側へと歩いて行ってしまった。


馬超ばちょう殿、目撃された事を話していただけますか」


 やがて諸葛亮が振り返って随行していた二人の若者に声を掛けた。

 一人は護衛役として出て来た趙雲ちょううん、その隣に立つ長身の男は馬孟起ばもうきといって最近蜀に来た新参の将だ。

 彼は長い間魏の侵攻に晒されていた涼州りょうしゅうの名門一族の青年だった。


 一族の男は例外なく強力な槍術と馬術を持つ騎馬将へと鍛え上げられるのは馬家の伝統だったが、その一族の中でもこの馬孟起の強さは【錦馬超きんばちょう】と謳われ名を轟かせている。

 馬一族を中心として、涼州の騎馬隊は長く曹魏を苦しめていたのだが、先だっての涼州急襲でついに潼関とうかんの牙城が崩れ、捕らえられた一族はことごとく処刑されてしまった。


 馬超は生き残った者達をまとめて蜀の劉備を頼ったのである。


 今回の遠征も壮絶な戦いの直ぐ後の事だったため、馬超の出陣は最初見送られ成都せいとの守備に任じられていたのだが、彼は労られる為に蜀に来たわけではないと自ら出陣を志願したのだ。故郷を焼かれた悲しみよりも、その無念を晴らさずにいるべきかという憤怒の方が強いらしい。


 まさに不屈の精神とは彼の事だった。


 この江夏こうかに着いて呉軍が魏軍を急襲したという報告が入った時も、蜀の陣営にいた馬超ばちょうはじっとしていられないと一人で飛び出して行った。

 そのまま魏軍に斬り込みそうだったので、慌てて劉備りゅうびが趙雲を制止に遣わしたのである。


 夜中馬超はこの崖の上から二軍の戦闘を見ていた。

 魏軍に斬り込む事は無かったが、じっと無言で眼を見開いたままそれを見つめる馬超の全身からは、悔しさがはっきりと滲み出ているのを側で趙雲は感じたのだった。


 今日になって同盟状態にある呉と蜀、二国間で使者が交わされ曹操の本営が来る前に、今後の事を軍議に話し合おうと南昌の呉城に蜀軍の武将が呼ばれたのだ。

 劉備と関羽かんうはすでに先に呉城に入り、諸葛亮はしかし城より先に魏軍の様子を見たいと望んだ為、先に長江を下って来たのである。

 そこへ戦闘を見ていた馬超と趙雲も呼ばれ、姜維は師の傍らを戦場では離れるつもりは無いらしく、張飛ちょうひは今だ呉蜀同盟に対して不満があるため、軍議が始まるまでの時間を呉城では黙って過ごせまいと踏んだ関羽から、諸葛亮達と共に水辺の空気でも吸って来いと送り出されて今に至った。


「俺がここに来た時はすでに戦闘は終盤に差し掛かっていた。張遼ちょうりょう軍三万の船団に対して呉軍の船の姿は数艇しか確認出来なかったが――魏軍は背後からも攻撃を受けているようで挟撃に浮き足立っていたな。

 間違いなく奇襲による攻撃だったのだろう。夜襲だったこともあり魏軍の混乱はひどいものだった。あれが陸の戦闘であったら張遼ならばあんな醜態は晒さなかっただろうが」


「さっそく水戦に不慣れな弱点が出ちまったわけか。曹操め、ざまあみろ!」

「しかし少数であの大船団を分断撤退させるということは、呉軍の武将も相当な手練ですね、冷静且つ大胆に張遼将軍率いる魏軍に奇襲を掛けていることから見ても――南郡なんぐん守備職に長くついておられた黄蓋こうがい将軍でしょうか?」


 姜維の質問に馬超は腕を組んだまま首を振った。


「いや、黄蓋は後詰ごづめとして船を追って来た。実行部隊は甘寧かんねいという武将らしい」


 姜維は危なげに崖に立つ諸葛亮の羽織の端をそっと持ったまま、顔を顰める。

 彼にとっては覚えも新しいあの不遜な態度の男である。


「あの男ですね……覚えていますよ。元々は水賊すいぞくだったとか。まさに適材適所ですね」


 適材適所、の所にはやや皮肉げな響きが籠っていた。


「甘寧といえばもともとは江夏こうか黄祖こうそのもとにいて孫呉そんごとは敵対してたはず。そこから下ったとしても黄蓋将軍のような古参の将に比べれば、まだまだ新参の域を出ない。それを今度の初戦、孫呉の奇襲部隊として魏軍にぶつけて来るあたり、孫家の若きご当主もなかなかですね」


 こんな時でも趙雲の声は静かだった。

 諸葛亮はそれに頷きつつも、今回の戦の全てを指揮しているのはあの白面はくめんの軍師なのだろうと思っていた。


 あの強い眼差しを持った青年を。


 黄巾こうきんの乱を経て今の混迷深める乱世に生きる者が孫呉には少ない。

 一族の長である孫堅そんけんはすでに亡く、残されている面々の顔を見てもまだ皆、青年の域を出ない者が多かった。


 あの秋の夜、月の下で出会った青年の不思議な眼差しを諸葛亮は思い出していた。

 迷いの無い眼。 

 整った容貌とは逆に心は何を前にしても微塵も揺れ動きもしない。

 孫呉の敵となるならば、どんな相手でも自分が立ちはだかり討ち取ってやろうというあの意志の強さだ。


「趙雲殿のおっしゃる通りです。……今度の戦、呉から先手で仕掛けたということは、その先陣の任を任せられるのは御主君の孫権そんけん殿、またその方から呉軍全権を委ねられた周瑜しゅうゆ殿自らお選びになった武将ということです。

 出自に囚われず人間の真価を見抜きここというところで疑心も無く使う。これは並の才覚の人間には出来ますまい。

 何よりこの初戦は、今後の行方を決めるべきものとなるでしょうから」


「当たり前だ。今にあそこにいる八倍くらいの曹魏軍がこの長江になだれ込んで来るんだぜ」

「曹魏には数の利があります。初戦がどんな悪い形で終わったにせよ彼らには巻き返すことが出来ます」

「では、呉軍の奇襲は無駄だったということですか?」

 諸葛亮は、はっきりと首を振る。

「いいえ。その逆です。数で相手に劣る場合、重要なのはどれだけ自分の望む展開で敵と当たれるかですよ、姜維。それを言えば、今回呉軍はこれ以上無いほどの初戦の飾り方をしたと言えるでしょう」


「しかし張遼将軍の首は取り逃がしていますし曹休そうきゅう将軍も健在。この敗走により曹魏は本格的に長江へ出征してきます。見方によれば下手に曹魏を刺激したようにも……」


 姜維がそう考えることも正しい。

 だが彼がそう考えるのはこの長江の地を決戦の地だと、まだ真剣に考えていないからだと諸葛亮は感じた。

 この戦で駄目なら撤退し、また立て直す。

 この初戦を端的なものとして捉えた場合、あの奇襲は全く成果を成さなかったものとなるだろう。

 だが……。


「戦の前に周瑜殿にお会いして良かった」


 諸葛亮はぽつりと呟く。

「そのために私は今、この戦にかけるあの方の強い意志を確信することが出来ます。あの若さであの方が、恐ろしいほどの決意をすでに固められていることを」

周公瑾しゅうこうきん殿はこの地で全てを決めるおつもりだと?」

 趙雲の一言に他の三人も諸葛亮を見た。

 風が吹き込んで来ている。


「周公瑾……彼は人を導く者としてはこの時代にも稀な才能の持ち主です」


「……今少しお聞かせ下さい。この戦、確かに孫呉は完全に曹魏そうぎの虚を突き急襲を成功させました。しかし裏返せばもう二度と曹魏はこのような奇襲には掛かりますまい。警戒を強め守りを固めるはず。そうすれば数で劣る孫呉の攻撃手段はより少なくなってしまうはず。

 やはり孫呉は自らを自分の手により苦境に立たせてしまったのでは」


「それについては俺も同意見だな。せめてあの奇襲では張遼の首くらい獲っておくべきだった」

 馬超が言う。

「しかし孫呉は退いたのでしょう?」

「ああ。その気になればあのまま大将首は取れたはずだ。ここから見たからこそ分かるが、それほど曹魏の陣営は完全に崩れていたのだからな。後詰めの黄蓋軍も手勢の多さとは逆に追撃は緩慢だったし、孫呉は肝心な時に最後の一手を迷ったのではないか。

 まだ曹操に和睦の意思はあるのだと余地を残したようにも見えた」


 諸葛亮は魏軍の船団を見つめる。

 趙雲も側にやって来て、同じ風景を眺めた。


「……船を連結し守りを固めたようですね。

 姜維の言う通り、あれでは奇襲は二度と効きますまい」


 諸葛亮しょかつりょうは頷いた。

 それから彼はその後三十分ほど黙ってそこにいた。

 何かを考えているようにも見えて、趙雲も馬超も姜維も、少し離れた所で彼の思考を妨げぬように見守っていた。

 やがて張飛がこれ以上黙ってられねえぜ! と怒鳴ろうと立ち上がったその、丁度同じ拍子で、諸葛亮が突然バサリと上着を跳ねて立ち上がった。

「あ⁉」

 不意をつかれた張飛は呆気に取られたが、諸葛亮はいつの間にか心を決めたような表情になり、手でどこかを指し示した。


「貴方にやっていただきたいことがあります。とても重要な役目になります」


 趙雲は振り返る。姜維きょういも張飛も肩越しに後ろを見た。

 そこにいた馬超は一瞬眼を瞬かせたが、すぐに潔く頷いてみせた。


「俺の力が役立つならば、どんなことでもしよう」



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