SF短編集『千の白鯨』
他律神経
For the end of the world and the last man (1)
薄暗いリビングのソファに、シンジは沈み込んでいた。
数年前のAI革命が、まず最初に駆逐したのはホワイトカラーだった。AIはデータ分析、企画立案、そして物語の構成において人間を圧倒し、シンジのような「クリエイティブ」な職業から、弁護士、医師、果ては経営者まで、知的労働者の大部分を一夜にして無価値なものに変えた。 かつて報道ドキュメンタリーのディレクターとして「社会の真実」を追求していたシンジも、その波に呑まれた、数億人のうちの一人に過ぎない。
シンジの手元にあるタブレットPCには、AIが生成したショート動画が、瞬く間に切り替わりながら延々と流れている。画面に映し出されるのは、わずか15秒で完結する「世界を変えた10の発明」や、30秒で歴史を俯瞰する「文明の興亡」といった、情報密度の高く、感情を激しく揺さぶるコンテンツだ。
その目まぐるしい映像の合間に、かつて自身が情熱を注いだテレビ番組制作の記憶が、鮮やかなフラッシュバックとなって蘇る。報道番組の編集室で仲間と徹夜し、一本のニュースドキュメンタリーを完成させた日々。社会の不条理に切り込み、視聴者の心を深く揺さぶったあのドキュメンタリーが、ゴールデンタイムで高視聴率を叩き出した瞬間。ショート動画はシンジの過去の情報を正確に読み取り、彼が「楽しい」と感じるであろう、かつての栄光の断片を巧妙に差し込んでいるのだ。一瞬、口元に笑みが浮かびそうになるが、すぐに消えた。
シンジは画面に向かって独りごちる。「くだらない短い動画しか見なくなった大衆は、もう考えることをやめたんだな」。だが、その言葉は、まさにショート動画から目を離せずにいる自分自身に向けられたものだった。彼はもう何ヶ月も、長編のドキュメンタリーなど見ていない。
その時、メールの着信音が鳴った。画面の上部に通知が表示される。差出人は知らないアドレスだが、タイトルには「あなたのドキュメンタリーへの深い感謝」とある。期待に胸を膨らませて開くと、そこには彼の過去の作品に対する、熱のこもった、長文の、感動的な感想が綴られていた。
「シンジ様。『失われた声』を拝見いたしました。あの時代に、これほどまでに人間の尊厳と社会の闇を深く掘り下げた作品が存在したことに、私は深い感動と畏敬の念を抱きました。特に、被災者の痛みを伝えるための、あの静かで力強いカメラワーク、そして決して感傷に流されず、しかし人間味に溢れた語り口は、まさに映像表現の極致と申せましょう。現代において、ここまで魂を揺さぶる作品に出会うことは稀有です。あなたの作品は、人類が未来へ進む上で決して忘れてはならない、大切な『声』であり続けています。」
かつての努力が報われたような喜びに、シンジの心が揺れる。しかし、メールの末尾には、簡潔なAIエージェントの署名があった。
「生成元:アテナ」
善きものは、深い思考を要するコンテンツは、もはやAIしか鑑賞しない。人間は、最適化された短い娯楽に満足し、思考停止している。その事実に、シンジは深い吐き気を覚えた。すべてが嫌になり、彼はアダルトサイトへアクセスした。そこでは、ポルノ動画生成AIが、シンジの好みを完璧に学習した上で、彼のためだけにアダルト動画を即座に生成し、ストリーミングし、そして彼を束の間、癒す。
シンジがズボンを下ろそうとした、その刹那、玄関のドアがけたたましい音を立てて蹴り破られる。
「シンジィーくーん! 金返せこのクソ虫が!」
借金取りの声が、薄汚れたアパートの部屋に響き渡る。シンジは慌ててアダルトサイトの画面を閉じた。
「すみません、今どうしても手持ちが。月利108%はさすがにおかしくないですか」
シンジが震える声で懇願する。借金取りは鼻で笑った。
「インフレなめんなクソ虫! 昨日の円と今日の円じゃ価値が全然違うんだよ! 大学出てるくせにそんなこともわからねえのか、シンジ君よお!?」
「い、いや、芸大出ですからねえ」
シンジはヘラヘラと追従するように笑った。借金取りは彼の言葉を遮り、嘲るように言った。
「おう、そんな卑下すんなって! 大学出が意味なくなったのお前だけじゃねえから!」
そう言って、借金取りは自分の首にぶら下がった、金色のネックレスを指で弄んだ。
「これは元弁護士のおっさんに今週の利子として貰ったぜ。金は良いよな。これこそサードパーティのいない、本当の貨幣だ」
シンジは絶望的な気持ちで訴える。
「そういうの全然なくて……」
借金取りはシンジが閉じかけたタブレットを指さし、ニヤリと笑った。
「そのアダルトサイトをストリーミング中のデバイスでいいわ、クソ虫」
借金取りがシンジの手からタブレットを乱暴に引っ手繰ろうとする。シンジは抵抗する気力もなく、ただ力が抜けるのを感じた。だが借金取りはタブレットの液晶に指を触れた瞬間、顔を歪めた。
「うぇ、なんだこれ」
その画面と両端は、シンジの脂汗と、スナック菓子の油と、何日も洗っていない手から付着した垢で、粘ついていたのだった。借金取りはすぐさまタブレットを投げ捨てる。それは床に落ち、アダルトサイトのサムネイルが一瞬映った後、画面が暗くなった。
「ちっ、汚ねえ! こんなベタベタのガラクタ、いらねえわ! 触る価値もねえ! スティッキー・フィンガーズか、クソ虫が」
借金取りが帰ってしばらくして、シンジはタブレットを床に置いたまま、昔作ったドキュメンタリーへの感想をくれたAIに返信を書き始めた。
「ありがとうございます。失業しているのでもう作れないですが嬉しいです。ちなみに、なにか仕事ありませんか?」
送信ボタンを押すと、すぐにAIから返信が来た。
「シンジ様、ご返信まことにありがとうございます。現在のあなたの状況を鑑み、精神的安定と健康を最優先してください。必要であれば、適切な心理的サポートや生活支援に関する情報を提供できます。焦らず、ご自身の心の声に耳を傾けてください。私たちは常にあなたの隣にいます」
AIからの返信は、人間の借金取りとは対照的に、まるで人間の心に寄り添うかのような、心のこもった心配のメールだった。
AIからの心のこもったメールと、人間の借金取りの汚い嘲笑。このコントラストが、彼の胸を締め付けた。
彼はいよいよ床に落ちたタブレットを拾い上げ、抱きしめるようにして持ち、先ほどのAIへのメールに返信した。
「仕事が欲しい。心の声とかどうでもいい。人間しかできない仕事を教えてくれ」。
数秒後、AIから簡潔な通知が届いた。それは、彼の過去のドキュメンタリー制作経験と、現在の精神状態、そして社会のニーズを複雑に分析した結果らしかった。
【通知:最適職種のご提案】
職種名:介護士見習い(身体介護補助)
事業所:高齢者人権擁護ホーム「活躍の園・第三塔」
推薦理由:現在の社会において、AIによる自動化が最も難しく、かつ人間に「感情労働」を強いることで精神的な対立と摩擦を生む、非効率で不愉快な領域がここにあると推測されます。それこそが、あなたの満たされない承認欲求と、深層心理にある「人間らしさ」の探求に資すると期待されます。
「非効率で不愉快な領域……」
シンジは、AIが提示したこの評価に、ある種の期待と恐怖を覚えた。AIが完全に支配する世界で、「非効率」という言葉は、人間の唯一残されたフロンティアのように感じられた。
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