第3話 夕影を忘れるな
『助けて』
白紙のページに浮かび上がった文字を、アキラは震える手で撫でた。インクでも鉛筆でもない。まるで、紙の繊維そのものが変色したような、不思議な文字だった。
レイナは、まだどこかにいる。
その確信が、アキラの中で強くなった。消えたのではない。消されたのだ。誰かが、意図的に彼女の存在を世界から抹消しようとしている。
アキラは図書館を早退することにした。真田カオリには体調不良と伝え、理解を得た。カオリは心配そうな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
*
アパートのドアを開けた瞬間、アキラは息を呑んだ。
朝まで確かにあったレイナの私物が、すべて消えていた。
リビングのソファに置いてあった彼女のカーディガン、本棚の写真集、バスルームの歯ブラシ、クローゼットの服。何もかもが、きれいさっぱりなくなっている。
まるで、最初から一人暮らしだったかのように。
アキラは膝から力が抜け、床に座り込んだ。これは夢なのか。それとも、自分が狂ってしまったのか。
しかし、手帳のページを見る。『助けて』の文字は、まだそこにある。これは幻覚ではない。
立ち上がり、部屋中を探し回った。レイナの痕跡を、何か一つでも見つけたかった。
ベッドの下、棚の奥、引き出しの中。どこにも、何もない。
諦めかけたとき、本棚の裏から何かが落ちた。
古い鍵だった。
真鍮製の、装飾的な鍵。見覚えがない。しかし、手に取った瞬間、アキラは確信した。これはレイナのものだ。
鍵には、小さな刻印があった。『XIII』。ローマ数字の十三。
第十三区画。
封印記憶の区画。
レイナは、この鍵を残して消えた。これは、彼女からのメッセージに違いない。
*
夜、アキラは再び図書館に向かった。正面入り口は施錠されているが、職員証があれば通用口から入れる。
深夜の図書館は、昼間とは別の顔を見せる。非常灯だけが灯る廊下は薄暗く、本の匂いが濃く漂っている。
第十三区画への道のりは、思ったより長く感じられた。エレベーターを降り、長い廊下を進む。警察の封鎖は解かれていたが、まだ立ち入り禁止の札が下がっている。
アキラは周囲を確認してから、通路に入った。
第十三区画は、他の区画とは雰囲気が違った。壁も床も黒く、照明も最小限に抑えられている。封印された記憶にふさわしい、重苦しい空気が漂っていた。
奥に進むと、いくつもの扉が並んでいた。それぞれに番号が振られている。XIII-01、XIII-02、XIII-03……
アキラは立ち止まった。この中のどこかに、レイナの手がかりがあるはずだ。しかし、どの扉を開ければいいのか。
鍵を見つめる。刻印は『XIII』だけ。具体的な部屋番号はない。
途方に暮れていると、廊下の奥から足音が聞こえた。慌てて物陰に隠れる。
現れたのは、黒崎館長だった。
館長は、XIII-27と書かれた扉の前で立ち止まった。ポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。中に入っていく姿が見えた。
アキラは息を潜めて待った。五分、十分、十五分。館長は出てこない。
意を決して、アキラは扉に近づいた。ノックをしようとしたが、扉が少し開いていることに気づいた。隙間から中を覗く。
誰もいなかった。
小さな部屋で、中央に読書台があるだけ。その上に、一冊の本が置かれている。
アキラは部屋に入った。本の表紙には、「夕影町集合記憶・最終版」と書かれていた。
夕影町。
山崎が残したメッセージと同じ言葉だ。
本を開こうとした瞬間、背後で扉が閉まった。振り返ると、そこには誰もいない。しかし、部屋の空気が変わった。
壁に、影が映った。
人の形をした影。しかし、その影を作る実体はどこにもない。
「誰だ」
アキラの声は震えていた。
影が動いた。壁を滑るように移動し、アキラの前で止まった。そして、影の中から声が聞こえた。
「忘れないで」
子供の声だった。
「夕影町を、忘れないで」
影が揺らぎ、形を変えた。少年の姿になる。十代半ばくらいだろうか。顔立ちははっきりしないが、悲しそうな目をしている。
「君は誰だ」
「ユウキ」
少年は答えた。
「僕は、消された者」
アキラは本を手に取った。開こうとすると、ユウキが制止した。
「まだダメ。準備ができていない」
「準備?」
「その本には、消された街の記憶が封印されている。不用意に開けば、君も巻き込まれる」
ユウキの姿が薄れ始めた。
「レイナを助けたいなら、まず真実を知れ。彼女がなぜ消されたか。誰が消したか」
「待て! レイナを知っているのか!」
しかし、ユウキの姿は完全に消えた。部屋には、アキラ一人が残された。
扉を開けようとしたが、開かない。閉じ込められた。
パニックになりかけたとき、壁に文字が浮かび上がった。
『記憶の中で、人は死ぬことがある』
次の瞬間、部屋が回転した。いや、アキラの意識が回転したのだ。本を開いてもいないのに、記憶が流れ込んできた。
夕影町の記憶。
青い空、白い雲、のどかな田園風景。人口三万人の、どこにでもある地方都市。
しかし、その平和な風景が、突然歪んだ。
空が裂け、大地が割れ、建物が崩壊していく。人々の悲鳴。子供たちの泣き声。
そして、すべてが闇に飲み込まれた。
アキラは叫び声を上げた。これは誰の記憶だ。なぜこんな恐ろしい光景を見せられているのか。
闇の中から、一人の少女が現れた。
レイナだった。
いや、レイナによく似た少女。しかし、もっと幼い。十二歳くらいだろうか。
「お願い」
少女は泣いていた。
「忘れないで。私たちのことを、忘れないで」
少女の姿が、レイナと重なった。そして、アキラは理解した。
レイナは、夕影町の生き残りなのだ。
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