第二話 桜は丘に舞う
——西暦219年、建安二十三年の郭嘉邸
「奉孝先生。 この三年間、本当にお世話になりました」
春の風がまだ冷たい小さな庭で、荘岐は深く頭を下げた。
「礼を言うのはこちらの方だ。 荘岐よ、そなたに教えることはもう何もない」
郭嘉はこの三年間を懐かしむように、荘岐の着物の襟を正しながら微笑んだ。
「先生から賜った教えの数々、一欠片も忘れはしません」
その声はわずかに震えていたが、瞳は確かに前を見据えていた。
「それは頼もしい。 そなたの活躍が聞けるのを楽しみにしているぞ」
荘岐は庭先で一歩踏み出すようにして口を開いた。
「……三年前、僕たちはこの街で大きな騒動を起こし、多くの人に迷惑をかけました。 それは今でも心から申し訳なく思っています。 しかし、それでも先生は僕たちを信じて、弟子として迎えてくださった……このご恩を、僕は一生忘れません」
郭嘉は少し俯いて、静かに首を振った。
「その件に関しては、気にせずともよい。 ……それに謝らねばならないのは、私の方だ……」
「どうして先生が……?」
郭嘉は庭の花を見つめながら、珍しくも苦しげな面持ちで言った。
「……私は、玲蓮の死を予見できなかった。 君たちの大切な人を救えなかったことを……悔やんでいるのだ……」
「……それは……先生の責任ではありません。 ……僕は、先生だけでなく、玲蓮からも夢を託されました。 だから、これから人生の全てをかけて必ずその信頼に応えるつもりです」
「荘岐よ……本当に強くなったな」
荘岐と向き合う郭嘉の微笑みの奥には、かすかな陰りが差していた。それはこの三年で静かに進行した病の影。
咳に混じる血の色は日ごとに濃くなり、いまや歩みも思うようには運ばない。
それでも郭嘉は、残された時を惜しむように、荘岐にすべてを託した。
衣食住のみならず、己が築いた知と戦略の粋、その才の限りを注ぎ込むように——まるで、己の灯火をひとつ残らず、若き弟子の胸に移そうとするかのように。
「……先生、どうかお身体をお大事に……」
いまにも崩れそうに揺れる郭嘉の体を荘岐が支える。
「私の心配など無用だ」
「ですが……」
「……それより、そなたはただの士官ではないのだ。 ”天性"を宿す者として、この乱世に光を灯す役割がある。 よいか、重臣らの声に惑わされるな。 そなたにしか果たせぬ使命を……決して、見失うでない」
「分かりました。 先生のお言葉、心に刻みます」
「うむ……」
二人の間に静かな沈黙が流れる。
「……では、行って参ります」
「……ああ。 私はこの地から、いつでもそなたを見守っているぞ」
「はい。 どうか吉報をお待ちください……!」
荘岐は名残惜しくも三年間の学舎の門をそっと閉めた。
——それからしばらくして、郭嘉の屋敷にやって来る一人の青年があった。
「先生、久しぶりだな。 荘岐はどうした?」
「柏斗、元気そうで何よりだ。 荘岐ならいまし方行ったぞ」
「ちっ……なんだよ。 迎えに来てやったのに……」
「わざわざ長安から来てくれたのか。 そなたもこの三年で見違えたな」
「当たり前だろ。 この二年間、夏侯将軍の部隊で血の滲むような努力をしてきたんだ……!」
柏斗は郭嘉の元を離れた後の二年間の修行を振り返り、誇らしげに語った。
「そうだな。 そなたの奮闘ぶりは書状にて聞き及んでいる」
郭嘉は微笑みで応え、柏斗の目を見て静かに言った。
「……柏斗、荘岐を頼んだぞ」
「ああ、分かってる。 あいつの力は信じてるが、とにかく無茶しすぎだ……あれじゃ命がいくつあっても足りねぇ……」
「荘岐の目指す道には、そなたの力が必ず必要になる。 どうか支えてやってほしい」
「もちろんだ。 二年前、俺が洛陽を出るときにくれた奉孝先生の言葉、忘れてねぇよ。 それに、俺の目標のためにもあいつは必要なんだ」
「うむ。 それと、もう一つ……」
「なんだ?」
「荘岐はおそらく、この地を離れることを恐れている……」
「……だろうな……だから俺が洛陽に来たんだ」
「そうか、どうやらこれは私の杞憂だったようだ。 そなたがいれば、きっと荘岐は前を向いて進めるだろう」
「どうだかな……まあ、俺なりにやってみるさ」
郭嘉はただ穏やかに頷いた。
「じゃあ、俺もそろそろ行くぜ……達者でな、先生」
郭嘉に晴れやかな旅立ちを見せる柏斗の表情の奥には、師との今生の別れを予感させる寂しさが滲んでいた。
二人の弟子を見送った郭嘉の背に、春風が何か言いたげにふわりと吹いた。
その風を感じた彼の横顔には、少しの驚きと温かな微笑みが浮かんでいた。
「どうか、君も二人を見守っていてくれ」
——荘岐が一足先に向かったその丘には、風に揺れる花々が、静かに咲いていた。
その丘の頂上に小さな墓石が一つ。
桜の木の下、色とりどりの花に囲まれたその墓は、洛陽を見守るように静かに佇んでいた。——まるで彼女の想いが、春の記憶としてこの丘に咲き残っているかのように。
「玲蓮、今日はいい天気だね」
荘岐はいつものように話しかけた。
「前にも話したけど、僕は小さい頃、丘に登って書を読むのが好きだった。 ここはその場所にそっくりなんだ」
「君も気に入ってくれてるかな……?」
返事はない。ただ風が花々を優しく揺らすだけ。
それでも荘岐は、彼女の面影を探すようにその風を感じていた。
荘岐は、懐から粗末な布切れをそっと取り出した。
それは、玲蓮が最期に彼に手渡した手拭い。
荘岐は心細くも穏やかな眼差しでその手拭いを桜の木の枝に結びつけた。
「このほうが君も寂しくないかと思ってさ……実は今日はね、お別れの挨拶をしに来たんだ」
荘岐は、花の眠る石に向き直って続けた。
「僕は先生の推挙で、軍の士官として従軍することになった。 階級はずっと下だけど、大事な軍議に参加できる許しをもらったんだ。 いまの僕があるのも全て君のおかげだよ」
一瞬言い淀んだが、荘岐は息を吸い直して再び語りかけた。
「……だけど、本音を言うと少し怖いんだ。 それはね、新しい場所に進むからじゃない。 ……僕はいままで、君の想いや先生の教えを全て胸に詰め込んできたつもりだ。 だけどもし、それを形にできなかったらって思うと——」
「荘岐! ここにいると思ったぜ。 久しぶりだな」
何かが溢れそうになったとき、ふいに柏斗の声が丘に響いた。
荘岐は慌てて目を擦り振り返った。
「……柏斗! 久しぶりだね! わざわざ迎えに来てくれたの?」
「……たまたま近くに用があったんだ。 それよりお前、ちゃんと修行できたのかよ?」
「もちろん、ばっちりだよ! この三年間、先生が付きっきりだったからね!」
「それならいいが、さぼってたんなら置いてくつもりだったぜ」
「ふっ、それは困るな。 それにしても、柏斗も一段と逞しくなったね!」
「まあ、俺は鍛え方が違うからな! だがもちろんそれだけじゃねぇぞ。 しっかり工匠としての技術も磨いたぜ?」
「頼もしいな……!」
明るく答えたその言葉の裏にはどこか寂しさが滲んでいた。
「荘岐……」
「……玲蓮も、きっと僕たちを見守ってるよね……」
「ああ……きっと見てるさ……そろそろ行こうぜ……長安までは長い道のりだ」
「うん……そうだね。 玲蓮、行ってくるね……」
——そのとき、大きく風に舞う桜の花びらが荘岐と柏斗を包んだ。
宙に踊る花弁にそっと背中を押されたような不思議な感覚が二人に走る。
「おい……いまのって……?!」
その風は、やわらかな春光となって、旅立つ二人への言葉をそっと形づくった。
その光が確かな輪郭をもって、彼の心にそっと流れ込む。
——それを受け止めたとき、堪えていた想いが荘岐の両目から一気に溢れ出していた。
「……そうか、そうだよね……! 君の言葉を、どうして忘れてたんだろう……」
荘岐は、桜に結びつけた手拭いを静かにほどき、胸の中でしっかりと握りしめた。
「最後までいっしょに行こう。 玲蓮」
荘岐と柏斗は肩を組み、声を上げ泣きながら笑った。
涙で塗れながらも、二人は力強く前に進む。
——その日、季節を追い越して咲いた桜は、別れの悲しさではなく、旅立ちの喜びを二人の肩にそっと降らせていた。
そして旅立つ彼らとともに彼女の想いもまた、春の風にのって進み出したのだった。
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