第二章 天命の扉

第一話 天下一分の計

——西暦219年、建安二十三年の長安


 寒が明けぬ春空の下、軍議の間では臣下たちの怒声が飛び交っていた。


「魏王、前線は苛烈を極めております。 補給に割く兵力はございません……」


「何を申すか! 兵糧なき戦など、愚の骨頂だ!」


 紛糾する軍議の前列には曹操に長年仕える歴戦の将軍たちがずらりと並び、その様子をただ静かに見つめている。


 魏王・曹操は胡床に身を預け、地図の一点を見つめていた。

その眼差しは、目前の戦よりも百年先の天下を計るような底知れぬ静寂を湛えていた。

 ただ沈黙するだけで、覇者の威がその場を支配していた。


——そんな中、誰かの声が議場に響いた。


「魏王。 この任、私にお任せください」


 中央に進み出たのは、一人の青年。


「……もしやそなた、奉孝が推挙したという若者か?」

 曹操の視線が荘岐に向けられ、ようやくその重い口が開かれた。


「はい。 荘岐と申します」


 臣下の文官武将たちの間にざわめきが広がる。


「奉孝殿がこれほどの軍議に童子をよこすとは……」

「ついに耄碌したか」

「病で目を曇らせたのでは?」


 皆は一斉に嘲笑した。

 一方、歴戦の将軍たちはいまだ沈黙したまま、荘岐に鋭い視線を向けている。


 曹操が再び口を開いた。

「奉孝は、我が“少伯”とも言うべき男だ」

 重厚で聞く者の胸に沈み込むような声だった。


 一瞬でざわめきが消え、声を荒げていた臣下たちの表情が凍りつく。


 曹操は静かに荘岐の目を見て言った。

「任を請け負うと言ったが、そなたにはいかほどの兵が必要か?」


「魏王の戦力を割くのは誠に忍びありません。 しかし、大事な兵糧を届けるため、どうか精鋭五十名ばかり、私にお預けください」


 軍議の間が一瞬静まり返る。空気が凍りついたような刹那——

 どっと笑いが湧き上がった。


「五十人だと? 童の口上にしても度がすぎる!」

「護衛どころか、山賊の餌食になるわ!」


 しかし、曹操は微動だにせず、荘岐から目線を外さなかった。

「うむ……良かろう、志を買うぞ。 そなたに精兵百を授ける」


「何ですと……!?」

「魏王、ご再考ください……!」

 再び議場はどよめき、臣下達の間に動揺が広がる。


「感謝いたします。 必ず、ご期待に応えてみせます……!」


「ああ、期待しておるぞ。 "天性"を宿す者よ——」



——それから約三年前、郭嘉邸


 荘岐と柏斗は、その男の声と佇まいにただ圧倒されていた。


「"思ったより"遅かったな。 狭い家ですまぬが、とにかく座りたまえ」


「……あなたが、郭嘉……奉孝殿……?」

 荘岐は、先の戦いで命を落とした玲蓮を背負ったまま男に問いかける。


「いかにも。 荘岐よ……こうして再会できることを心待ちにしていたぞ」


「な……俺たちが来るのを分かってたとでも言うのかよ……?」


「ああ、私がそなたらを呼んだのだ」


「何だと……?」


「街での演説に……あの家印……」

 荘岐がそう呟くと、郭嘉はわずかに口角を上げた。


「それだけではない。 私はそなたと出会うのをここ洛陽で十年近く待っていた……」


「十年……?! 僕が洛陽に来たのですら、七年前なのに……」


「……そんな馬鹿な話があるかよ……!」


 信じがたい話ではあるが、男が纏う威厳にはそれを裏付けるような説得力があった。


「ふっ……まあその話はもうよい」

 過去を懐かしむように遠くを見る郭嘉の目には、深緑の光が宿っていた。


「やっぱり……その目は……」


 荘岐の言葉をかき消すように、彼らを追っていた兵士達が屋敷に乗り込んできた。

 そしてその兵士たちを押し除けて転がるように屋敷に入り込んできたのは、曹操の使者・梁允だった。


「奉孝殿……! ま、まさか貴様ら……」

(ほんとうに張延を……)


 梁允は刺客である張延を荘岐たちに差し向けた後、一度は関所に戻っていたが、何やら胸騒ぎを覚えて自ら郭嘉の屋敷にやってきたのだった。


「梁允よ、手間をかけてすまないな。 この者達は私が対処するゆえ、兵を十名ほど外で待機させてくれ。 他の者は引き上げて構わん」


「し、しかし……」


「丞相には私から説明しよう。 そなたは心配するな」


「か、かしこまりました。 では……失礼致します」

 梁允は兵士に命を伝えると、何か恐ろしいものを見るような目で荘岐たちを一瞥し、引き上げていった。


 それを見届けると、再び郭嘉がゆっくりと口を開いた。

「……その背中の子が玲蓮か?」


「……どうしてそれを……?」


「どうやらその子は、全てを賭けて君達を導いたと見える……」


「玲蓮は……俺たちがここに辿り着くために命を投げ出したんだ……!」

 柏斗が郭嘉を睨みつけるように見据えて言った。


「……そうか……では私が責任を持って、丁重に埋葬しよう……」


「いいえ、それは僕たちの手でやります」


「よかろう…… 林安よ。 この子を縁側に安置してくれ」


「承知いたしました」


 使用人の林安が庭に面した縁側に布団を敷き、そこに荘岐と柏斗が玲蓮をそっと寝かせた。

 朝焼けに照らされた玲蓮の顔は穏やかで、まるで荘岐と柏斗に微笑みかけているようだった。

 二人は膝をついたまま動けずに、彼女をただ静かに見つめていた。


 郭嘉はその様子をしばらく黙って見つめていたが、やがて二人に声をかけた。

「……さて……そなたらが、本当に私の待ち望んだ者なのか確かめさせてもらおう……結果次第では、命を落としても文句は言えんぞ?」


 その言葉を聞いて、荘岐と柏斗の顔に再び決意がみなぎる。


「もちろん、その覚悟です……!」


「そうか、では聞くが……そなたが手にしたその弩。 どこで手に入れた?」


「これは、僕の設計を元に柏斗が組み立てたものです」


「ほお……おもしろい。 だが、どうやってそれを証明する?」


「紙と筆をお借りできれば、設計図を書けます」


「よかろう。 布と筆をここに。 それから、外の兵士に命じ、この弩を細部まで解体させよ」


「承知いたしました」

 林安が奥の書斎から布と筆を持ってくる。


 荘岐は布を前に、一度だけ目を閉じると、まるで記憶を写しとるかのように迷いなく筆を走らせた。その瞳には深く青い光が力強く宿っていた。


「うむ……これは……」

 郭嘉の胸に一つの確信が灯った。


——その間、外で待機していた兵士のうち二名が再び屋敷の中に呼び込まれ、荘岐の弩を部品単位まで分解した。


「その者よ。 柏斗と言ったな? 私の目の前でこれを組み直して見せよ」


「ああ、お安いご用だ……!」

 柏斗が慣れた手つきで作業に取り掛かる。


 郭嘉は、筆を走らせる荘岐と弩を組み立てる柏斗の手元を交互に見守る。


 そして間もなく、二人の手が同時に止まった。

「書けました……!」「ほら、できたぞ!」


「……見事だ」


「じゃあ、合格ってことか……!?」

 柏斗が思わず身を乗りだす。


「そう焦るでない。 こちらへ来たまえ……」

 郭嘉はそっと手招きし、二人を奥の書斎へ通した。


 二人は郭嘉に続いて書斎へ足を踏み入れる。


 その狭い書斎の机には、中華を見渡す地図が広げられていた。

 それを指した郭嘉が二人に静かに語りかける。


「——黄巾の乱以降、群雄が割拠した。 皇帝の権力は衰え、国が乱れて久しい……そなたは、この混沌の原因を何と捉える? そして、この戦乱の世はどこへ向かうべきと心得る?」

 郭嘉の視線は荘岐に向けられていた。


「……混沌の原因は、“無知”だと思います。

民が暴れたのも、正しいことを知らされずに、間違った指導者に煽られたからじゃないでしょうか。

僕は、誰にでも学ぶ機会があれば、たとえ百姓でも貧民でも、自分で考えて行動できるようになると信じています。

そうすれば、誤った命にも流されずに済むし、役人の不正だって、民の目があれば抑えられるはずです。

……それが回り道でも、きっといつか、中華の平和に繋がると、僕は考えています……!」


「学問の世か……悪くない答えだ。 しかし、まずはこの戦乱を収め、国を安定させることなしに、そのような世は訪れまい」


「それは……」

 荘岐は拳を握りしめたまま言い淀んだ。


「よいのだ。 次は私の考えを語ろう」

 郭嘉は地図に視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。


「——私は、いずれこの乱世が三つに分かれることを感じていた。 魏、呉、蜀。 才ある者たちが、それぞれの大義を揚げるだろう。 互いに睨み合い、奪い合い、あるいは滅ぼし合うことになる……だが、それでは本当の統一は果たせぬ」


 彼は指で地図をなぞった。魏から蜀へ、蜀から呉へ、そして再び魏へと、円を描くように。


 荘岐は郭嘉の発する言葉を、一つ一つ噛み締めるように聞き入っていた。


「三つに分かたれたこの大地を、ひとつに縫い合わせる術があるとすれば、それは刀でも矢でもない。 ——理念だ」


「理念……」


 郭嘉は荘岐の方へ向き直った。


「人の心を結び、異なる理の間に感覚を通わせる。 言葉を越えた世界で繋がることが必要なのだ。 それが、“天性”を持つ者の役割だと私は考えている」


「……"天性”……ですか……?」

 荘岐は胸のざわめきを感じ、思わず息を呑んだ。


「そうだ。 一つの”天性”。 それがこの三国の中に、一本の糸のように分け入り、人々を結び合わせていく——」


 荘岐と柏斗はもはや言葉を失い、ただ一心に郭嘉の語る言葉に心を寄せていた。


 そして郭嘉は、息を吸い直してこう言った。


「——私はそれを、『天下一分の計』と呼ぶことにした」


 郭嘉はどこか愉快そうに、だが確信に満ちた笑みを浮かべた。


「制するのではない。 “一分”が、三国を内側から変えていく。 いずれ、魏も、呉も、蜀も、皆“同じ未来”を夢見るようになる。 そういう日が必ず来る」


 そして、ゆっくりと目を閉じた。


「この計は、決して万人に託せるものではない。 だが、今のそなたなら、あるいは——」


 しばしの沈黙のあと、郭嘉はゆっくりと目を開き言葉を結んだ。


「荘岐よ。 そなたに、私の“最後の時間”を預けよう」

 郭嘉は静かに荘岐の手を取った。


 その日、荘岐に託された小さな光は、やがて三つの国を貫き結ぶ、一本の糸となる——『天下一分の計』、その始まりであった。

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