第7話 新婚初夜

 

 辺境伯家のお風呂は凄かった。

 まず広い。こんなに広い必要もあるまいに、と思ってしまう程に広い。なんなら、一人で入ると落ち着かないぐらいの広さで、湯船も広い。

 水資源がよほど豊かなのだなと思っていたが、入浴後のタオルとか諸々を用意してくれたメイドさんの一人に聞くと、温泉を引いてきているのでこういうことが可能らしい。

 そうか。温室も紹介された時、ここの土地では日光を取り入れたとしても維持が大変なのではと思っていたが、地下に温泉の流れるパイプを走らせることで実現したものなのかも知れない。

 しかし、温泉を通すパイプがあったとしても、設備として維持管理が大変なのは確定している。ベースは古いが、色々と快適に過ごせるように改築を重ねているようなので、本当にお金持ちなのだなぁと改めて感心してしまう。

「……早すぎても遅すぎてもいけないって、基準が不明なのがいけないと思うんですよね」

 淑女のマナー、新婚初夜編の開幕である。

 一応は、私も教わってはいた。ここ数年はもう立派な大人なので付けていなかったものの、成人するまでは世間的なスタンダードを教えてくれる家庭教師の先生に色々教わってはいた。

 けれども、やはり先生からしても私は結婚の見込みが限りなく薄い黒髪だったため「世間ではこういう感じなんですよ〜」という、ふんわりザックリしか大枠の部分しか教わっていない。私も私で、ないものと思っていたので「へぇ〜そうなんだ〜」で済ませてしまっている。得た知識も乏しければ全てがうろ覚えである。

 普通のご令嬢なら、結婚というのは一大イベント。

 今は国際情勢も安定しているので、高位貴族なら早いうちから婚約者を決めておき、共に過ごす時間を設けて上手くやっていけるよう関係性を育むものだ。下位貴族ならば、親もより良い条件の相手と我が子を結び付けられないかと考えるため、適齢期になってから決めるのが一般的である。中には、かなりの確率で「相手の家のこの要素は少し不安だけど、お互い好き合ってるみたいだし、ここで決めましょうか」みたいな感じで恋愛結婚に落ち着く場合もなかなか多い。

 加えて、やはり健康な子供とは若い男女から生まれる率が高いし、家督の引き継ぎやらを考えると、若い者同士の内に子供を作って教育を施した方が安定するよね、ということで、古典文学にあるような、権力者の老人に泣く泣く若いご令嬢が嫌々嫁ぐ、というケースは皆無に等しい。

 男女ともに、年齢が離れすぎた幼い相手との結婚をするとなれば、普通に他の貴族からドン引きされるのである。

 それに近い理由で私は嫌厭されていたのだが、世間の大半が善良で良識的であるのは喜ぶべきことだろう。

 あんな黒髪女を娶ったら、同じように魔力のない役立たずが生まれるかも知れないのに、あの家は正気なのか?

 これをやらかしたのがアルバンである。

 誰もが知っている国内の超重要人物でありながら、誰もが普段は居るのは分かっているけれど話題にもしない、偏屈で物好きなフリートホーフ辺境伯。領地に閉じ籠っているため噂さえも聞こえてこない。そんな辺境伯様が突然の御乱心である。きっと、中央の社交界ではヒソヒソ五分くらい噂されてから、すっかり忘れ去られていることであろう。

 今のところ、アルバンは私に物凄く甘いので、ちょっと失敗しても許されそうだが、失態するにしても呆れられないレベルに留めるべきだろう。

「入浴と着替えに一時間はかかる。他のご令嬢とここはそんなに変わらない筈だから、えーと、初夜だし香油を塗って……服、服はどうするんだっけ……?」

 ネグリジェ……?

 いやでも、寝巻きで廊下をウロウロして移動するのは良くないのでは?

 なら普通にドレス着て移動した方が良いのか。

 よし、なら、ドレス着た上で、ネグリジェ持っていくことにしよう。

 こう、あの、正直に言ってエッチなことした後に、その場で解散になるのか一緒に寝るのかもよくわかっていない。

 とりあえず指定されたのでアルバンの部屋に向かえば良い。それだけしかわからない。

 わからないなりに準備して、いざ行くぜ初夜、という意気込みで部屋に向かい、扉の前で一分間くらい挙動不審にオロオロしつつも、意を決してノックしたら、すぐに出迎えてくれた。

「ああ、ツェツィーリア、お疲れ様。寒くない? 夜は冷えるから……中に入って」

 言われるがままに入室すると、暖炉の近くに丸テーブルとソファが置いてあった、座るように促されて、椅子を引いて貰って着席する。

「グリューワインを用意したよ。一緒に飲もうか」

「あ、ありがとうございます」

「こっちは……着替え? 人に運ばせればよかったのに」

「ぁ、その、寝巻きで出歩くのは良くないかなと、思ったので」

「不安?」

「ええ。まあ。想定していなかったことなので」

 正直に自己申告をしよう。

 なんにもわかっていません、予習も出来ていません、と。

 アルバンは静かに、私の向かいに座った。

 グリューワインの中には、干し葡萄とオレンジが入っていて、甘くておいしい。体が温まる。香りが良い。

 お互いに黙って、俯いてグリューワインを飲む。

 私は俯いて、落ち着かない気持ちでての中のカップを見詰めていた。

「……申し訳ないけど、君の意思がどうであれ、性行為はするよ。君が嫌でもなんでも関係ない。僕は金で君を買った。それが事実だし、君は僕に抱かれなくちゃならない。わかるね?」

「はい」

「それで、僕と君がこれからセックスするのは決定事項だし、僕は君のことを抱きたくて仕方ないし、ここまで来て我慢できるほど殊勝な男ではないから、もう完全に、全部僕の責任なんだけど……ことを始める前に、プレゼン、しても良いかな?」

「……聞きましょう」

 流れ変わってきたな?

 これからしっとり、エッチな展開になってそのまま……だと思っていたのだが、アルバンは至極真剣な表情で説明の構えである。

 最早この初夜という戦術的イベントは夫であり家長でもあるアルバンの一存により実行されるものと確定してはいるが、いわば実行する駒の一つである私に対しても、どのような理由で行われるのかという説明をしてくれるらしい。ま、真面目だ。

「まず、君には先天的に魔力がない。非常に珍しいケースだけど、例がない訳じゃない。過去の記録を見ると酷い差別と偏見によって悪様に書かれていて、その記録自体もおざなりな保管で破損している場合が多い。ここまでは君も知っているね?」

「はい。一応、調べましたから」

「僕の個人的な所感としては、黒髪は魔力がないことが生まれた時点で分かってしまうから、誕生と同時に死産という扱いで処理されていることが多いんじゃないかと考えているんだ。過去の記録も、ほとんどが庶民のもので、これはつまり貴族が子殺しを行って隠蔽したってことじゃないかな? 推測でしかないけど、白銀が持て囃され希少だと言われるのに対して、記録上では黒髪よりも確認できる個体数が多い。黒髪が魔力無しと知っている人間が世代問わず多いのも、実は僕らが認識している以上に出生数が多いことが原因ではないかな?」

「ええ。それは……私もそうではないかと思っていました」

 あの両親の間に私が生まれたように、黒髪の出現は突然だ。記録が残っていないのも、私が生まれてから一度も同じ色の誰かを見ないのも、きっとそういうことなのだろう。

 貴族はより強い魔力を持った後継を求める。

 もし、生まれた子が黒髪だったのなら、きっと真偽はともあれ、死産として処理されているのだろう。

「ツェツィーリア、君は強い。残酷な真実に対しても、拒絶をせずに理解しようと努めている。これが出来る人は、なかなか居ない。僕はね、君に同族が居ないのは、国の対策の遅れだと思っているよ。医師が国家の認定制度になってもう五十年経っているのに、未だに庶民も貴族も関係なく、妊娠・出産に関しては地域の産婆に頼っているんだからね。君と結婚する前の準備を進めていて、愕然としたよ。出生数と母子の安全性、利便性は国力に直結するのに、ずっと放置されてきたんだから」

「医師の大半は男性ですから……貴族であれ庶民であれ、手段としては産婆を頼ることになります。女性医師の増加は現状、現実的ではないかと」

「医師という観点からであれば、そうだろうね。ただ、僕の考えは違う。医師とは別に、産婆に対しても免許を与える形にする。現状は変えず、これまでの実績で判断して、腕のある産婆であるというのを証明する制度なら良いんじゃないかな? 勿論、ゆくゆくは産婆の技術を集積して、教育機関を作れたら良いんだろうけど……何も手をつけず放置している現状を打破するためには、そこから始めるべきなんじゃないかな?」

 アルバンは腕組みをして、微妙に眉を寄せた。

 少し、怒っている。

 いかにも納得できない、と言いたげだ。

 うーん、この人、良い人なんだよなぁ。

 女性というのはか弱く大人しく、夫に対して従順であるべし。女は子供を産むのが第一。優先されるべきは国を守り社会を回している男性ですよね、っていうのが前提なのに、それはおかしいよ、って思ってくれているんだ。あくまでも国力っていう、無機質で合理的な観点から。

「アルバン様は革新派なんですね」

「まあね。古い制度なんて更新していかなきゃ使い物にならないし邪魔なだけなんだから、適宜改訂していかないと、不便で仕方ないからね。とりあえず、色々と調査してからこの件は議会に提出してみるけど、きっと、通るまでに十年はかかる。だから申し訳ないけど、君の出産には間に合わないと思う」

「ええと、あ、ありがとうございます……?」

 悔しそうに言っているが、私としては元から、子供を産む、即ち産婆を頼むという認識だったので、今ひとつピンとこない。

「とりあえず、万が一のことがあったら大変だし、腕利きの産婆を三人ほど探し出しておいたよ。それと、いつごろ子供が出来るかまだわからないから、君が妊娠したら、同時期に乳母を頼めそうな女性を紹介して貰えるよう話も付けてあるから!」

「素晴らしい根回し力ですね」

 これが、辺境伯領を一人で回して、かつ本当の本当にやりたい放題をやっている男の手腕……!

 くっ、かっこいい……!

 悔しいが、私はもうまんまとこの人のことが好きになってしまった。

「……ごめん、つい、話が逸れちゃったけど、本題に戻るね?」

「これはプレゼンの一部ではなかったんですね」

「うん。必要な最低限の準備かな。それで、過去の記録を調べて、なんとか黒髪の女性の記述についてを発見することが出来たんだけど」

「よく見付けましたね」

 私や両親も、頑張って調べてみてはいたのだが、何もわからずじまいだった。

 記録があっても、生まれてすぐに死んだ、だとか、何年何月の何日に黒髪の人がこの地域に住んでいた、という、存在を示すだけの内容ばかりで、その記述は一行で収まってしまう。

「古代文献の解読をしてたら発見したんだ」

「アルバン様、つかぬことを伺いますが、アカデミーでは主席だったりしますか?」

 古代文献となると、そもそも文字から違うし、文法も違う。聖職者の中でも熱心な層や、儀式において知識が必要となる王族に連なる人々や、それこそ学者ぐらいしか勉強しない分野だ。なにしろ言語のパターンが難しく、学習難易度が高いとされているものなので。

 古代文献を片端から漁って黒髪黒目、魔力無しの人間の記録を発見するに至ったというのは、読めるレベルと考えて良いだろう。

「いや、主席ではないよ」

「そうなんですか」

 意外だった。

 頭が良いし、全方面で器用で優秀なので、てっきり主席だと思っていたのだが……同学年に優秀な人物が居たのだろうか?

 そういえば、アルバンは二十五だというし、王太子殿下も確か同じくらいだったので……主席をそちらに譲ったりしたのかも知れない。

「早期入学して、そこから飛び級は三回したけど」

「次元が違った」

 つまり王太子殿下とは在学期間がほぼ被っていないということですね、わかります。

 舐めていました。

 大変申し訳ございません。

 白旗を上げるしかない。降参です。

 これ、どう考えても私の手に負えるような男性ではないのだけど、今更ながらヤバい人の妻になってしまったな……?

「結論から言うと、君は僕とセックスすると、感覚過敏が治ります!」

「あ、本題はここからだったんですね」

「そう。ここからが大事なんだ。ツェツィーリア、君には魔力が無い。つまりそれは、他の人間が当たり前に持っている、魔力に対する耐性が無いということなんだ。だから、人が多い場所に行くと、体調を崩す。これまでもそうじゃなかったかな?」

「ええ。ですが、人が少ない時でも体調を崩したりもしていましたし、相手によるのかな、とは。ここに来てから、アルバン様に対してはそれが余り起きないので、お相手の魔力制御も関係するのではと思います」

「その通り。やっぱり君は頭が良い。魔力が無い人は、この国に君しか居ない。だから誰も気が付かないし、僅かに漏れ出る魔力の制御なんて考えない。必要がないことだからね。これは余り知られていないことなんだけど、魔力は人間の意志や感情に連動する。例えば、君に対して敵意がある人間、そうでなくとも、機嫌が悪い人間。悪意は指向性があるんだ」

 納得できる話だ。

 思い返してみると、社交で嘲笑される時には気分が悪くなったし、敵意を向けてくる相手が居ると、肌に痛みを感じた。そうでなくでなくても痺れを感じる時があったが、あれは単純に、機嫌が悪いか、相手の悪意に私が気付いていなかったのだ。

 家でも時々あったのは、誰かしらの調子が悪い時だったのだろう。今日はなにか、色々と上手くいかない、イライラする、なんてことはよくある話だ。父や母であっても同じ部屋に居られない時も稀にあったが、きっとそういうことなのだろう。

「……社交場での体調不良は、私が精神的に弱いせいだと思っていました」

「違うよ。君は強い。それに、誇り高い。僕は知っているよ。君は苦しくても、社交を放棄することがなかった。素晴らしい貴婦人だよ」

「家族が苦しい時に、寄り添うことも出来てはいませんでした」

「君のせいじゃない。体質は本人の力では変えられない。改善方法も、知る人が居なかった。君に出来たことは少ない。制限の多い中で、これまで、よく頑張ったね」

 不覚にも、これまで頑張ったね、なんて言われて、ちょっとだけ泣きそうになった。

 単純なもので、褒められると嬉しい。

 不甲斐ないと思っていた部分で甘やかされると、心が脆くなってしまう。

「古代文献に、君と同じ体質の黒髪の女性の記述があった。名前は不明だけど、彼女は生まれた時から体が弱く、人と共に暮らせなかったが、とある男性と結婚したところ、体質が改善して人里で暮らすようになったそうだ。これを参考にすると、結婚に伴う事象で改善が成されたことになる」

「つまり……?」

「魔力を持った男性の膣内射精に伴い、女性側の体内に魔力が注入されることにより、吸収されると同時に耐性が付く」

「う、ぅん、なるほど……?」

 わかるようなわからないような。

 いやでも、家畜だって微かにではあるが、魔力を帯びている。食べることで微量なりと摂取していると思うのだが、それではいけないのだろうか?

「余り知られていないけど、女性の体は膣内射精された男性の精液を、少しだけど粘膜吸収するんだ。これは口腔摂取では成立しない。ツェツィーリア、君は肉や魚を食べても、体調は崩さないよね?」

「はい。そうですね。食事は普通に出来ます。魔獣の肉は食べたことがないので、そちらは分かりませんが」

「これは消化するという過程を挟むというのもあるんだけど……何より、古代魔法においてはセックスそのものが儀式として成立するという理由からでもあるんだ。現代の倫理だと、セックスを魔法儀式として組み込むのは不適切だから手段として放棄されただけで、その特別な性質は時代を問わず成立する現象に過ぎない。古代だと、性交によって魔力を交換することで、一時的にではあるけど、適性のない魔法を行使することができる秘術も存在していたようだし」

「面白いですね」

 普通に興味深い。

 古代魔法や、魔法儀式については未だにわかっていないことが多いというが、文化であったり、価値観であったりが現代とまるで違うことからして、非常に興味深い。

 今でこそ一夫一婦制を取り、特に女性は貞淑であることが美徳とされているが、古代ではそうではなかったのかも知れない。

「そう。今の価値観で大っぴらに行使は出来ないだろうけど、現実に実行可能な手段は多ければ多いほど良い。解読して、手法が分かれば、いざという時に役に立つかも知れないからね」

「合理的な考えだと思います。緊急時にしか許可が降りないとしても、手段があるとないとでは天と地ほどの差がありますから」

「ふふっ。僕たち、気が合うね」

 もう一杯、アルバンがグリューワインを注いでくれる。

 まだもうちょっとお話ししようね、ということなのだろう。

「……君が、他人の魔力に対して極端に弱いのは、自分の身を守るためのバリア機能が全くないせいだ。黒い服を着ると改善されるのは、君の領地では黒い布の染料として使われているのが黒曜ツルバミだから。調べてみたけど、この染料は魔力を遮断する効果がある。まだ、他に誰も気付いていないようだけどね……ごく微量ではあるが、性交による魔力の吸収で、体には相手の魔力が残留する。本来なら、計測器でも観測できないほどの微量な魔力で身が守れるものだし、厳密には植物であれ持っているほど僅かなものだ。行為によって君が魔法を使えるようにはならないけど、少なくとも、人前でヴェールを脱いでも、体調を崩すことはなくなるよ」

「良いことしかないですね」

「うん。メリットに関してはこんな感じなんだけど、デメリットも説明するね」

「してくれるんですか」

 驚いた。フェアにも程がある。

 そもそも、メリットを理論立てて説明してくれるだけでも破格だが、まさかデメリットまで教えてくれるとは思わなかった。

「デメリットとしては……僕は魔力が強いし、君に対して明確に性欲を向けている。だから、僕の魔力は君に対してその……そういう風に作用してしまうから、ことが終わるまで、君は地獄を見ることになると思う」

「せっ、は、えっ、そうい、そ、えっ、は、つまり……?」

「僕の魔力をモロにぶつけられることになるから、最初の夜はかなり大変なことになると思う。正直に言って、君が僕のことを嫌いでも、貪り尽くす気満々だったからね!」

「しょ、正直が過ぎる……!」

 今更だけど、この人、私なんかで欲情できるのか……本当に変な人だな?

 顔に傷があるのは確かだけど、優秀な上に白銀の王子様なんだから、どんな女性だって選べるし、合法的に愛妾だって持てるだろうに。物好き過ぎる。

 というか、あの、私の意思を無視しても、って部分、凄いな?

 男性のことはよくわからないが、性欲というものの勢いはそこまで強いものなのだろうか。

「だから、君は僕の魔力のせいで、強い媚薬を飲ませられたみたいな状態になってしまうだろうけど、それは君のせいじゃなくて、僕のせいだから。あまり気にしないでね。僕は、ツェツィーリアが、みっ、乱れるのも、全部、ぜんぶ美しいと思うだけだからねっ……!」

「おっ、と。ことが始まってしまいましたか」

 ハァハァ荒く息をしながら、顔を紅潮させつつ、アルバンが私の手を握って撫でさすってくる。

 うっ、既に魔力もとい強めの性欲が、布を貫通してくる。ゾクゾクするような感覚。言ってしまえば、全身を撫でられているような。そんな。

「おいで。ツェツィーリア」

 腕を引かれて、立たされる。

 痛くはない。ないが、強引だ。

 そのまま、引っ張られてベッドへと押し倒される。

 息を荒くしたアルバンが、私を見下ろしている。覆い被さるようにして。

 大きな手が、ヴェールを取り去る。

 恍惚として、それでいてどろりとした、煮立つような目で、狂気すら感じるような表情で、私の体の上に軽く跨るようにして乗り上げたアルバンが、私のことを見ている。

「はぁ……ツェツィーリア……! 夢みたいだ。君と、こんなこと……! 信じられない。君を抱けるなんてっ……!」

 猛然と、彼は私に襲い掛かった。獣が、仕留めた獲物の肉に喰らい付くように。

 唇が奪われる。

 重ねられて、舌を吸われる。軽く喰むように吸われる。じゅるじゅると、鼓膜まで響くような凄まじい音がする。彼は貪欲に唾液を啜った。

 舌と舌が、唇と唇が触れ合って、体液が混ざる。吐息が重なる。呼吸が荒くなる。苦しい。だけれど、甘く痺れるような感覚に襲われる。口の中が全部、怖いくらいの快楽で塗り潰される。

 もう、なにも考えられない。

 快楽で理性が、思考が押し流される。

 微かに残った理性と自我が「こわい」と訴える。キスだけでこれなのだ。きっと、これ以上は頭が壊れてしまう。

「ぁ、あぁ……ツェツィーリア、なんて、美しいんだっ……!」

 今着ているドレスは首元まで、小さなくるみボタンで留められている。前開きのそれを、アルバンの大きくて太い指が一つずつ上から、焦れるように外し、普段は隠している首から胸までが露わになる。

 空気が冷たい。

 反して、私の体は既に熱い。

 アルバンは身を屈めて、より近くで私の姿をまじまじと見た。

 恥ずかしい。見ないで。

 そう思った時だった。

「うっ……!」

「えっ」

 ボタボタボタッ、と、私の胸に、熱い液体が降ってきた。

 アルバンが片手で顔を抑えているが、止まらない。

「ツェ、ツェツィーリ、ア……」

 私の胸に落ちてきたのは、大量の鼻血だった。

 アルバンの頭がぐらりと揺れる。

 太い首に支えられた頭部が、糸が切れたかのように傾き、そのまま、私の胸に落下する。

「ぐふうッ!」

 お、重い……!

 大柄なアルバンがいきなり倒れ込んできたため、衝撃が来た。完全に下敷きになってしまっている。

 苦しい。なんとか退いて貰わなくては。

「ア、アルバン様? アルバン様? えっ、もしかして気絶してます? えっ!?」

 なんとか腕だけ抜いて、アルバンの顔の状態を確認するが、未だに出血が止まらないらしく、ドクドクと大量の鼻血が流れ続けており、私の下着に吸収されていっている。

 こ、これは、鼻血とはいえ、出血量が多過ぎる……!

「だ、誰か! 誰かーーっ!」

 叫んでみるが、誰も来てくれない。

 よく考えてみたら当然だ。今夜、アルバンは私が嫌がろうがなんだろうが、泣き叫ぼうが抱くと決めていた訳で、人払いをしていたのであろう。

 私が悲鳴を上げて助けを求めても無視するよう言い含められている筈だ。

 しかし、これはまずい。

 このまま放置していたら出血多量で死んでしまうのではなかろうか。

 そうなると私は新婚初夜に夫を暗殺した稀代の悪女として名を馳せることになってしまう。それだけならまだしも、もしここで未亡人になどなってしまったら、広大な領地と管理に手間のかかるフリートホーフ辺境伯家を私が一人でどうにかしなくてはならなくなる訳で……!

「アルバン様、絶対に助けますからね! お願いですから死なないで下さい!」

 体を捻り、物凄く重くて大きなアルバンの下から、かなりの時間と労力を使って這い出る。

 止まらない鼻血を前に、息が詰まらないよう、なんとか彼の首を横向きにグイッと変えた。首を寝違えるだろうが仕方ない。死ぬよりはマシと思ってください。

 鼻血の染み込んだドレス姿のまま、夜の屋敷を彷徨うこと四十分。

 なんとか使用人の部屋を発見し、家令とその他使用人の方々を叩き起こして、アルバンを仰向けにし、応急処置を施し、血で汚れていたからと私は体を洗い……洗った上で、家令からふかぶかと頭を下げられた。

「奥様におかれましては、この度は……主人に代わりましてわたくしからお詫びを申し上げます。しかしながら、もしよろしければ、朝までアルバン様と共に過ごして頂ければと」

「大丈夫ですよ。わかります。儀礼というものがありますからね。成果はともあれ、初日から夫婦が別の寝室で一夜を明かすというのは良くないですものね。アルバン様の容体も心配ですし、私が見ておきますから」

「おぉ、なんとお優しい……!」

 家令のお爺さんが、しおしおになりながら、死ぬほど申し訳なさそうにそんなことを言ってくるので、却ってこちらの方が申し訳ない気持ちになった。

 いや、体調の悪い家族をそのまま放置するほど人でなしではないです。

 アルバンの意識がない間は体調にも特に影響がないようだったし、まあ別にいいかな、というのが正直なところだ。

 と、こんな感じで、私たち夫婦の初夜は見事な失敗に終わったのであった。


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