第14話
私とエルが作り上げた防衛網が静かにその役目を果たす中、あの夕暮れの後から私たちは洞窟の入り口で交代しながら夜通し見張りを続けるという新しい日課を始めていた。二人きりの時間は以前とは比べ物にならないほど穏やかで、満ち足りたものになっていた。焚き火の炎を見つめながら、彼がイグニス様から聞いた古い物語や私が竜葬司として訪れた様々な土地の話をする。それはまるで互いの失われた時間を取り戻すかのような、かけがえのないひと時だった。昨日の夕暮れに交わした言葉にならない想いの残滓が、私たちの間に温かい空気を作り出していた。
その夜も見張りは私の番で、エルは洞窟の奥で浅い眠りについていた。空には満月が輝き、雪に覆われた高峰を白銀に照らし出している。あまりにも美しい光景に私はしばし見惚れていた。この山を、イグニス様の眠るこの聖域を、必ず守り抜かなくては。そう決意を新たにした、まさにその時だった。
私の耳元で、風が囁いた。
『…来た…』
それは私が尾根道に仕掛けた『風の耳』の護符が送ってきた微かな警告だった。邪な気配そのものは感じない。けれどこの真夜中に、獣ではない何かが護符の結界に触れたのは確かだった。
「エル、起きてください」
私は眠っている彼を静かに揺り起こす。彼はまるで獣のように一瞬で目を覚まし、状況を察した。
「…来たか」
「ええ。尾根道の方です。数は、おそらく一つ」
私たちは顔を見合わせると音を立てずに立ち上がり、洞窟の外へと出た。そして昼間のうちに見つけておいた尾根道全体を見渡せる岩陰へと身を潜める。眼下には月明かりに照らされた一本道が続いていたが、目を凝らしても動くものは何も見えない。
「どこに…」
「待て」
エルが私の腕を掴んで制した。彼の瞳は猛禽類のように鋭く、道の一点を凝視している。
「いる。道の真ん中だ。巧妙に景色に化けていやがる」
彼の言葉に私は息を呑み、その視線の先をさらに注意深く観察した。すると分かった。道端にあるごく自然に見える岩、その影の輪郭がほんのわずかに不自然に揺らいでいる。あれはただの岩ではない。何らかの魔術で姿を隠しているのだ。
「あれは、一体…」
「『擬態岩(ぎたいがん)』だ。術師が己の魔力を込めた土くれから生み出す使い魔の一種で、偵察や陽動に使われる厄介な代物だ」
番人としての彼の知識が敵の正体を暴き出す。
擬態岩はゆっくりと、だが着実に私たちのいる山頂へと向かってきていた。その動きは自然の岩が風化で転がるのとは明らかに違い、明確な意志を持った生命の動きだ。それは私が設置した『風の耳』の結界を一つ、また一つと通過していく。その度に私の耳元で風が警告を発した。奴らは私たちの魔術的な守りに気づいていないのか、それとも気づいた上で性能を試しているのか。
「どうしますか。ここで私の浄化の術で…」
「いや、待て」
エルは冷静だった。
「奴が俺の罠の範囲に入るまで引きつける。お前の術をここで使えば相手にこちらの警戒を知らせることになる。奴らの狙いはあくまで偵察。ならばこちらもその裏をかく」
彼の作戦に私は頷き、二人で息を殺してその時を待った。
擬態岩は何も気づかぬまま獣道へと続く分岐点に差しかかる。そこはエルが最も巧妙な罠を仕掛けた場所だ。擬態岩が罠の真上を通過した、その瞬間。
ガシャアン!という金属的な音と共に、擬態岩の足元から網が勢いよく飛び出した。その網はただの網ではない。竜の骨を削って作った杭が何本も編み込まれ、触れたものの魔力を一時的に封じるという番人一族秘伝の『封魔の網』だ。
擬態岩は完全に動きを封じられ、岩肌のようなその表面が苦しむように激しく震えている。
「よし、かかった!」
エルの声が小さく、だが力強く響いた。
しかし敵もさるものだった。捕らえられた擬態岩の体から禍々しい紫色の光が漏れ始めたのだ。あれは術師への緊急信号だ。このままではここに罠があることが奴らに筒抜けになってしまう。
「リーナ!」
「はい!」
打ち合わせは不要だった。私は懐から訓練の時に使った浄化の土玉を一つ取り出すと、狙いを定めて擬態岩に向かって投げつけた。
パン、という乾いた音と共に土玉が擬態岩の体で砕け散る。聖なる塩と水晶の粉末が白い煙となって擬態岩を包み込んだ。
「グギィィィ…!」
擬態岩が断末魔のような奇妙な叫び声を上げ、その体から漏れ出ていた紫色の光が浄化の力によってかき消されていく。主との魔力的な繋がりが完全に断ち切られたのだ。やがて擬態岩の動きは完全に止まり、魔力を失ってただの土くれの塊へと戻っていった。
「…やった」
私たちは顔を見合わせて小さく拳を握った。私たちの初めての共同防衛は完璧な成功だった。
「見事な連携だったな」
エルが私の肩をぽんと叩いた。その顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「あなたこそ。あの罠がなければ、どうなっていたことか」
私も彼に笑い返した。互いの力を認め合い、共に勝利を掴んだという事実が私たちの絆をさらに強くしていくのを感じる。
私たちはしばらく様子を窺ったが第二の刺客が現れる気配はなく、奴らは偵察用の使い魔との連絡が途絶えたことでこちらの警戒を悟り、一旦引いたのだろう。
洞窟へと戻ると、焚き火の温かさが戦いの緊張で冷えた体を優しく溶かしていく。
「奴ら、思ったより慎重だな」
エルが焚き火の炎を見つめながら言った。
「ええ。ですが必ずまた来ます。おそらく次はもっと大規模な力で、私たちの守りを破壊しにくるでしょう」
「ああ。決戦の時は、近いかもしれんな」
その言葉に私たちの間に再び緊張が走る。だがそれは以前のような不安や恐怖から来るものではない。守るべきもののために共に戦う覚悟を決めた者だけが持つ、清々しい緊張感だった。
「大丈夫です。私たちなら、きっと勝てます」
私がそう言うと、エルは私の目をじっと見つめ、そして力強く頷いた。
「ああ。お前とならな」
その言葉が私の胸を熱くする。私たちはただの協力者じゃない。互いの背中を預けられる、唯一無二のパートナーなのだ。
その夜、私たちは多くを語らなかった。ただ燃える炎の向こうに、互いの瞳の中に、同じ決意の光を見つめ合っていた。
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