第13話
聖骸布の浄化を終え、私たちの間には穏やかで満たされた空気が流れていた。イグニス様の最期の時は刻一刻と近づいている。けれど私たちにもう恐れはなかった。最高の準備は整った。あとはその時を敬意と愛情をもって迎えるだけだ。そんな確信が私たちを支えていた。
「さて、次の準備に取り掛かりましょうか」
私がそう言って他の祭具に手を伸ばそうとした時だった。
「待て」
エルが低い声で私を制した。彼の表情が一瞬で険しくなっている。番人としての鋭い感覚が何かを捉えたのだ。
「どうしたんですか?」
「…誰かいる。この山の外側に」
彼の視線は洞窟の入り口のさらに向こう、私たちが先日戦った北の谷の方角を向いていた。
私は耳を澄ますが、風の音以外何も聞こえない。
「私には、何も…」
「いや、間違いなくいる。数は一人か二人。魔力の気配は完全に消しているが、俺の目はごまかせん。獣とは違う、人間の動きだ」
彼の言葉に私の背筋が凍った。術師たちだ。やはり諦めてはいなかったのだ。穏やかだった空気が一瞬にして張り詰める。せっかく取り戻した平穏をまたしても脅かそうというのか。イグニス様の聖なる眠りを、これ以上邪魔させるわけにはいかない。
「偵察でしょうか」
「だろうな。前の儀式で俺たちの手の内はある程度割れている。今度はもっと慎重に、俺たちの守りを探りに来たに違いない」
エルは槍を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には静かだが燃え盛るような怒りの炎が宿っている。
「どうしますか。迎え撃ちますか?」
「いや、下手に動いてこちらの手の内をさらに晒すのは得策じゃない。それに相手の狙いが分かるまでは、洞窟から離れるべきでもない」
彼の判断は冷静で的確だった。私も同感だった。
「では、どうやって…」
「対策を講じる。この前の作戦会議の続きだ。奴らの接近をいち早く察知し、この聖域に一歩たりとも踏み込ませないための守りを固める」
「守り、ですか」
「ああ。お前の竜葬司としての知識と俺の番人としての知恵を組み合わせれば、ただの術師どもに破れるようなやわな守りにはならないはずだ」
彼の言葉は頼もしかった。そうだ。私たちはもう一人じゃない。二人でならきっとこの山を守り抜ける。
「やりましょう。最高の結界を」
私たちは顔を見合わせ、力強く頷いた。それは私たちにとって初めての本格的な共同作業の始まりだった。
まずエルが彼の知識を披露してくれた。彼は洞窟の入り口の地面に、鋭い石くれで高峰一帯の驚くほど精密な地図を描き出す。
「奴らがこの洞窟に近づくためのルートは、大きく分けて三つ。尾根伝いの道、獣道、そしてこの前の地下洞窟だ。だが地下洞窟の入り口は俺が岩で塞いでおいた。だから警戒すべきは地上の二つのルートになる」
彼は地図上の二本の線を指でなぞった。
「尾根伝いの道は見晴らしがいい。ここに、お前の術で侵入者を感知するような警報装置の役割を果たすものを設置できないか」
「はい、できます。『風の耳』と呼ばれる術を編んだ護符を置いておけば、そこを通る者の足音や会話を風がここまで運んできてくれます」
「よし。ならそこは任せる。問題は獣道だ。ここは木々が鬱蒼と茂り身を隠す場所が多い。お前の護符だけでは見通しが悪いだろう」
「では、どうしますか」
「ここは俺の出番だ」とエルはにやりと笑った。
「この山の地形は俺の庭だ。獣道の要所要所に俺が罠を仕掛ける。ただの落とし穴じゃない。番人の一族にだけ伝わる特殊な罠で、かかった者の動きを封じ、音で俺たちに知らせる仕組みになっている」
竜葬司の魔術的な守りと番人の物理的な罠。それを組み合わせれば、確かに強力な防御網が完成しそうだ。
「素晴らしい。ではすぐに準備に取り掛かりましょう」
私たちは早速、それぞれの作業を始めた。私は鞄から特殊な和紙と竜の血を混ぜて作ったインクを取り出し、『風の耳』の護符の作成に取り掛かる。和紙に竜語で構成された複雑な文様を、一筆一筆丁寧に描いていく。集中力と精密さが求められる作業だ。
一方エルは洞窟の隅に置いてあった彼の道具箱から丈夫な蔓や動物の骨を削った部品、特殊な樹脂などを取り出し、驚くほど手際の良い手つきで組み上げていく。彼が作っているのは、巧妙な仕掛けが施された警報装置付きの罠のようだった。
私たちはしばらくの間、無言でそれぞれの作業に没頭した。洞窟の中には私が呪文を紡ぐ低い声とエルが道具を扱う音だけが響く。その時間は不思議と心地よかった。同じ目的のために隣で仲間が力を尽くしてくれている。その事実が私に大きな安心感を与えてくれていた。
やがて私は十数枚の『風の耳』の護符を、エルの方もいくつかの罠を完成させた。
「よし、これを設置しに行こう」
私たちは二人で洞窟の外へと出た。まずは私が担当する尾根伝いの道。私はエルに案内されながら、道の要所要所に敵に気づかれにくい場所を選んで護符を設置していく。
「すごいな、お前の術は」と私の作業を見ていたエルが感心したように言った。「護符を置いただけなのに、そこだけ空気が違うのが分かる。見えない壁ができたみたいだ」
「ええ。この護符はただ音を拾うだけでなく、微弱な浄化の結界も張っています。邪な心を持つ者がここを通れば、強い不快感を覚えて先に進むのをためらうはずです」
「なるほどな。一石二鳥というわけか」
次に私たちはエルが担当する獣道へと向かった。彼は私が護符を設置した場所からさらに奥へと進み、「ここだ」と定めた場所に手際良く罠を仕掛けていく。雪の下に巧妙に隠されたその罠は、私が見てもどこにあるのか全く分からないほどだった。
「これはすごいですね。私なら間違いなくかかってしまいます」
「だろう? 番人の仕事もなかなか奥が深いんだぜ」
彼は少し得意げに胸を張った。その姿が少しだけ子供っぽく見えて、私はまた笑ってしまった。
全ての設置作業を終え、私たちは高峰の頂に戻ってきた。空はすでに夕焼けの色に染まり始めている。
私たちは並んで、自分たちが守りを固めた山を見下ろした。目には見えないけれど、この山は今、強力な結界と罠で幾重にも守られている。それは私たち二人の力が合わさって初めて完成した、最高の城壁だった。
「これで、よし」とエルが満足そうに呟いた。
「ええ。これなら奴らも簡単には手出しできないでしょう」
私たちは顔を見合わせて笑い合った。共に何かを成し遂げたという達成感が、私たちの心を温かく満たしていた。
その時だった。エルがふと、真剣な顔で私を見つめてきた。
「リーナ」
「はい」
「…ありがとうな」
「え?」
「いや、なんというか…お前が来てから、俺は変われた気がする。前はただイグニスがいなくなるのが怖くて悲しくて、周りが見えなくなっていた。でも今は違う。友の最期を、胸を張って見送ってやれる。そう思えるようになった」
彼のまっすぐな言葉が、私の心の最も柔らかい場所にすとんと落ちてきた。
「私の方こそ、です」私の声は震えていた。「私こそあなたに会えて良かった。竜葬司はいつも一人でしたから。誰かとこんな風に力を合わせることなんて考えたこともなかった。でも今は、あなたが隣にいてくれて心強いです」
私の言葉に彼は少し驚いたように目を見開き、そして照れくさそうに視線を逸らした。その耳がまた赤く染まっている。
「…俺もだ」彼はぼそりと言った。「お前が隣にいると、なぜか力が湧いてくる」
その言葉に私の心臓が大きく高鳴った。もうごまかせない。この気持ちはただの仲間意識じゃない。
夕焼けの光が彼の横顔を美しく照らし出していた。私はその顔から目が離せなくなっていた。
風が私たちの間を優しく吹き抜けていく。私たちは何も言わずに、ただ互いを見つめ合っていた。言葉にしなくても分かる。私たちの心は今、確かに一つに重なっていた。
イグニス様の最期を見届ける。その大きな目的の先に、私たちの未来があるのかもしれない。そんな淡くて温かい予感が、私の胸をいっぱいに満たしていった。
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