第13話

フィンさんと交わした、海の底への約束。

その日から私の心は、まだ見ぬ世界への期待でいっぱいだった。

彼が生まれた場所はどんな景色なんだろう。

どんな音や、どんな光に満ちているんだろう。


考えるだけで胸が高鳴って、インク作りの手もどこか浮ついてしまう。

私たちは約束通り、古い伝説の手がかりを求めて町の図書館へ向かうことにした。

石畳の道を二人で並んで歩く。

すれ違う町の人たちが「シオリちゃん、フィンさん、こんにちは!」と気さくに声をかけてくれる。

フィンさんも最初は戸惑っていたけれど、今では自然に会釈を返せるようになっていた。

彼が私の日常に、この町の風景に溶け込んでいく。

その一つ一つの変化が私にはたまらなく嬉しかった。


ポート・ルミナの図書館は、町の広場の片隅にひっそりと佇むレンガ造りの趣ある建物だ。

重い木の扉を開けると、古い紙とインクの懐かしい匂いが私たちを迎えた。

高い天井まで届く本棚にはびっしりと本が詰まっている。

窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う細かな埃をキラキラと照らしていた。


カウンターの奥で司書のエリオットさんが静かに本を読んでいた。

私たちの姿に気づくと、彼は穏やかな笑みを浮かべて立ち上がる。

「やあ、シオリさん、フィンさん。こんにちは。今日はどういったご本を?」

「エリオットさん、こんにちは。実は今日、本を探しに来たのではなく……エリオットさんにご相談があって来たんです」


私の言葉に彼は少し意外そうな顔をしたが、すぐに興味深そうな表情になった。

私たちはカウンター横の小さな閲覧スペースに案内された。

フィンさんは少し緊張した面持ちで椅子に浅く腰掛けている。

私は深呼吸を一つして、切り出した。


「エリオットさん。人間が海の中で呼吸できるようになる……そんな古い魔法や伝説について、何かご存じないでしょうか?」

私の突拍子もない質問に、エリオットさんは驚いて目を見開いた。

だが彼はすぐに何かを察したように、フィンさんの胸元で輝く月の雫石のペンダントにちらりと視線を送る。

「……なるほど。そういうことでしたか」

彼はすべてを理解したように頷いた。

「シオリさんがフィンさんの故郷へ行かれるのですね」


その言葉に、今度は私たちが驚く番だった。

「どうして、それを……」

「私はこの町の司書ですから。フィンさんが『海の一族』の末裔であることも、この図書館の古文書を読んで薄々気づいていましたよ」

エリオットさんは悪戯っぽく片目をつぶった。

彼は私たちの秘密を知った上で、ずっと見守ってくれていたのだ。

その事実に胸が温かくなる。


「君たちが探しているのは『泡珊瑚(あわさんご)』の伝説でしょう」

エリオットさんは迷いのない足取りで書庫の奥へと消えていった。

そして一冊の分厚くて装丁の傷んだ古文書を抱えて戻ってくる。

彼が広げたページには美しい挿絵と共に、信じられないような物語が記されていた。


『古の昔、海の一族と陸の民が今よりもずっと深く交流していた時代。愛し合った二つの種族は互いの世界を行き来するための魔法を生み出した。それが泡珊瑚の奇跡である』


古文書によれば『泡珊瑚』とは、持ち主に寄り添うように空気の膜を作り出し、水中での呼吸を可能にする魔法の道具だという。

「ですがこの泡珊瑚は、ただ海を探せば見つかるというものではありません。それは一から『育てる』ものなのです」


エリオットさんは古文書の一節を指さした。

『泡珊瑚を育むには二つのものが必要不可欠。一つは聖なる入り江の清らかな海水。そしてもう一つは……『愛する者へ捧げられた、人魚の涙の真珠』である』


人魚の涙の真珠。

その言葉に、私とフィンさんははっと顔を見合わせた。

私のポケットの中には、フィンさんが感謝の気持ちだと言って渡してくれたあの温かい真珠が入っている。

「まさか、この真珠が……」


私がポケットからそっと真珠を取り出すと、エリオットさんは「おお」と感嘆の声を上げた。

「素晴らしい……これほど純粋な魔力を秘めた真珠は私も初めて見ました。これなら間違いなく泡珊瑚を育てることができるでしょう」


フィンさんは自分の涙がそんな奇跡の鍵になるという事実に、呆然としているようだった。

「俺のただの涙が……シオリを、俺の世界へ……」

彼の声は感動に震えていた。

ただの感謝の気持ちじゃなかった。

あの時流した彼の涙には、私を想うもっと深くて温かい愛情が込められていたのだ。

その想いが今、私たちの未来への扉を開こうとしている。


その時だった。

図書館の扉がギイ、と音を立てて開いた。

入ってきたのは腰の曲がった、小柄な一人の老婆だった。

彼女はこの町で一番長く暮らしていると言われる、元海女のウミさんだ。


「おや、みんな揃ってなんだい。難しい顔をしちまって」

ウミさんはしわくちゃの笑顔で私たちに近づいてきた。

そしてテーブルの上の古文書と、私の手のひらにある真珠を見てぴたりと動きを止める。

彼女の目が懐かしむように、そして愛おしむように細められた。

「……泡珊瑚。まあ、懐かしい響きだねぇ」


ウミさんの口から思いがけない言葉が飛び出した。

「私の婆さんがよく話してくれたもんさ。若い頃、海で溺れかけたのを一人の美しい人魚に助けられたってね。その人魚はお礼だって言って、婆さんに一つの珊瑚をくれたそうだよ。水の中に入れても息が苦しくなくなる、不思議な珊瑚をね」


それはただの伝説ではなかった。

今、目の前にその奇跡を確かに知る人がいる。

ウミさんは私の手のひらからそっと真珠を手に取った。

「良い真珠だね。愛情がいっぱいに詰まっとる。これならきっと立派な珊瑚が育つだろうよ」


彼女は古文書には書かれていなかった、大切なことを教えてくれた。

「泡珊瑚を育てるにはもう一つだけ特別なもんがいるんだよ。それはね、『陸の者の、手仕事のぬくもり』さ」

陸の者の、手仕事のぬくもり。

「その真珠をただ海に置くだけじゃダメなんだ。あんたがその真珠のために心を込めて何かを作ってあげるのさ。珊瑚が根を張るための温かい寝床をね。そうすりゃ珊瑚は安心してすくすくと育つだろうよ」


私の、手仕事。

インク作りで培ってきた、この手の感覚。

それがフィンさんと私を繋ぐ最後の鍵になる。

道筋ははっきりと見えた。


私はウミさんとエリオットさんに深く頭を下げた。

「ありがとうございます。やってみます。私、作ってみせます。フィンさんのために」


私の決意にフィンさんは力強く頷いてくれた。

彼の瞳にはもう迷いはない。

私への絶対的な信頼の色だけが浮かんでいた。


図書館を出ると空は美しい夕焼けに染まっていた。

私たちは真っ直ぐに、あの日月の雫石を見つけた人魚の入り江へと向かう。

これから始まる二人だけの儀式のために。

私の手の中にある小さな真珠が、未来への希望のように温かく輝いていた。

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