第12話

虹色の洞窟でフィンさんと想いを確かめ合ってから、私たちの毎日は優しい光に満ちていた。

まるで上質な蜂蜜のように甘く、とろりとした時間が流れていく。


彼はもう私の店「汐風のインク瓶」のただの常連客じゃない。

私のかけがえのない大切な恋人なのだ。


月の雫石のペンダントは驚くほどの力を発揮してくれた。

フィンさんは以前よりもずっと長く陸で過ごせるようになった。

潮の満ち引きを気にして慌てて海へ帰る必要もなくなったのだ。


店の営業が始まると彼はどこからともなくふらりとやってきて、私が店を閉めるまで当たり前のように一緒にいてくれる。

それはまるで夢のような、けれど確かな温もりを持つ現実だった。


アトリエで私が新しいインクの調合をしていると、フィンさんは窓辺のソファに腰掛けてハープに似た海の楽器「シー・リラ」を爪弾いている。

彼が奏でる穏やかなメロディは、作業台の上で揺らめくルミン・インクの液体と不思議に共鳴した。

嬉しい気持ちで作るインクは彼の音色に合わせて暖かな金色に輝き、切ない想いを込めたインクは物悲しい旋律と共に深い藍色に染まる。

アトリエ全体が、一つの大きな魔法の空間に変わるかのようだった。


デザインの喜び、インク作りの喜び、そして音楽を生み出す喜び。

そのすべてを二人で分かち合える。

こんなにも満たされた時間は前世でも、そしてこの世界に来てからも一度もなかった。


陸での時間が増えたフィンさんは、まるで生まれたての子供のように人間界のあらゆることに興味を示した。

その無垢な好奇心が私にはたまらなく愛おしかった。


「シオリ、この『時計』というものは、なぜいつも同じ速さで針が動いているんだ? 潮の満ち引きとは関係ないのか?」

「それはね、人間が作った『時間』という約束事だからですよ。みんなが同じ時間で動けるようにね」


「シオリ、この『本』という紙の束には何が書いてあるんだ? 俺の知らない物語か?」

「ええ、これは遠い国の騎士のお話。今度、夜に読んであげますね」


彼の純粋な質問に、私は一つ一つ丁寧に答えていく。

そのたびに彼が私の世界を少しずつ知ってくれるのが嬉しかった。

そして私も彼の言葉の端々から、海の世界のことを少しずつ学んでいく。

それはゆっくりと、でも確実に二つの世界が溶け合っていくような、優しい時間だった。


ある晴れた日の午後、私は新しいインクのアイデアを思いついた。

フィンさんが見せてくれた、あの秘密の洞窟。

宝石箱をひっくり返したような光と色彩に満ちた別世界。

あの感動をインクとして形にしたい。


「フィンさん、少しお願いがあるんですけど……」

シー・リラを弾いていた彼に声をかけると、フィンさんは優しい眼差しで私を見た。

「どうしたんだ、シオリ」

「あの洞窟に生えていた虹色に光る苔を少しだけ分けてもらえませんか? あれで新しいインクを作ってみたいんです」


私の言葉にフィンさんは嬉しそうに微笑んだ。

「もちろんいいとも。あれは『七光り苔(ななひかりごけ)』といって海の魔力が結晶化したものなんだ。君のインクになるのなら、苔も喜ぶだろう」


その日の夕方、フィンさんは早速小さなガラス瓶いっぱいの七光り苔を持ってきてくれた。

瓶の中で苔は赤や青、緑と万華鏡のように光を放っている。

見ているだけで吸い込まれそうな美しさだ。


翌日、私はその特別な素材を使ってインク作りを始めた。

アトリエの作業台に乳鉢とルミン・イカの分泌液、そして七光り苔の入った瓶を並べる。

まずは乳鉢で苔を丁寧にすり潰していく。

シャリ、シャリ、という音が心地よく響く。

苔は驚くほど柔らかく、すり潰されるたびに溜息が出るほど美しい色の粒子になった。


その粒子を銀色に輝くルミン・イカの分泌液にそっと混ぜ合わせる。

すると液体は一瞬にして、オーロラのような複雑な色彩を帯びて輝き始めた。

それは今まで作ったどのインクとも違う、生命を宿したような神秘的な輝きだった。


「すごい……」

隣で見ていたフィンさんも感嘆の声を漏らす。


仕上げに、私は彼がくれたあの真珠の涙をほんの少しだけ削って加えた。

彼の感謝の気持ちがこのインクに特別な力を与えてくれるような気がしたからだ。

真珠の粉が溶けた瞬間、インクの輝きがふわりと温かいものに変わった。


出来上がったインクを試しにガラスペンに付けて紙に線を引いてみる。

書かれた線はただ色を変えるだけではなかった。

見る角度によって洞窟の壁面のように様々な色が浮かび上がり、まるで小さな虹がそこにあるかのようにきらめくのだ。


「名前は『虹の洞窟』にしよう」フィンさんがそっと呟いた。

「俺たちの、秘密の場所の名前だ」

「はい、そうですね」

二人だけの思い出がまた一つ、形になった。


その特別なインクを美しい小瓶に詰めている時だった。

フィンさんが真剣な顔で私に向き合った。

「シオリ。君にずっと伝えたかったことがあるんだ」

彼の改まった態度に、私の心臓がとくんと跳ねる。


「君に俺の本当の世界を見せたい。俺が生まれた海の底の故郷へ、君を招待したいんだ」

それはいつか彼が口にした、夢のような約束。

まさかこんなに早くその時が来るなんて。


「……! でも私、人間ですよ? 海の中では息が……」

「ああ。だから準備が必要なんだ。人間が海の中で呼吸するための、古い魔法がある」

彼の蒼い瞳がまっすぐに私を射抜く。

「俺一人ではその魔法を成し遂げることはできない。君の力が必要なんだ、シオリ」


私の力が、必要。

その言葉が私の胸を熱くする。

彼のために私に出来ることがある。


「もちろんです! 私にできることなら何でもします!」

私は力強く頷いた。

フィンさんは安堵したように微笑む。

「ありがとう。……まずはこの町で一番物知りな人物に話を聞きに行こう。古い伝説にきっと手がかりがあるはずだ」


私たちが思い浮かべたのは同じ人物の顔だった。

図書館の司書、エリオットさん。

そしてもう一人、この海のすべてを知っているかのような灯台守のサミュエルさん。


私たちの新しい冒険が今、始まろうとしていた。

まだ見ぬ海の底の世界。

フィンさんの故郷。

期待とほんの少しの不安を胸に、私は彼の大きな手をぎゅっと握りしめた。

その手はひんやりとしているけれど、どこまでも頼もしくて温かかった。

この人と一緒ならきっとどこへだって行ける。

そう、確信していた。

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