罠(1)
目の前にいる、トレンチコートの男――後藤が笑う。全身を震わせ、よだれでも垂らしそうなほど、顔を歪めて彼は笑った。
(バレた――)
誠人の中の危険信号が激しい色で点滅した。
後藤が誠人の中から、望むものを見つけたことは明らかだった。
咄嗟に、距離を取ろうと、誠人の身体が後退する。それを見越してか、後藤の右手がまっすぐ伸び、誠人の左手首を捉えた。
後藤は誠人より五センチは背が低かった。
不健康なまでに痩せており、極度の猫背で、顔色も悪い。年齢からいっても、誠人の方が体力も腕力もあるように思えた。
ほとんど反射で、誠人は掴まれた手を振りほどこうとした。
しかし、腕はぴくりとも動かなかった。
今度は意識的に、自らの腕を引っ張った。後藤を多少、傷つけても良いぐらいの気持で、本気の力で引っ張った。
ところが、結果は全く同じ。まるで岩に挟まれたようだ。誠人が押しても、引いても、後藤の腕は揺れることさえしなかった。
「人を殺したことはあるか?」
じわじわとパニックに陥りそうな誠人に対し、後藤がゆっくりと問いかける。
全身で喜びを噛み締めていた時と異なり、後藤は陰気な無表情で自身のカメラを見つめて言った。
人を殺したことがあるかだって? そんなもの、あるわけがない。
わざわざ言葉にして反論するのも馬鹿らしい。誠人は返事をしない代わりに、必死にもがいて自身の腕を取り戻そうした。気づけば雑誌コーナーにいた客も、トラブルに巻き込まれまいと姿を消している。店内にいるのは誠人と後藤の二人だけだ。やむを得ず、誠人はバックヤードにいる先輩達を呼ぼうと息を吸った。
すると、後藤が持っていたハンディカメラを、押しつけるように誠人に向けた。
後藤が見ていた映像が、誠人の瞳に飛び込んでくる。
驚くべきことに、そこには誠人と後藤が映っていた。
誠人は映像が示す画角に見覚えがあった。
誠人の右斜上から、見下ろすように、誠人と後藤、そして雑誌コーナー全体が映っている。画面の中の誠人と後藤は、今と全く同じ状況で、誠人は後藤に腕を掴まれているところだった。
監視カメラの映像だ。誠人には分かった。
雑誌の万引き防止のために、店内に置かれた監視カメラの映像が、後藤の手の中に映っている。
唖然としていて映像を見つめていると、映像の二人が動いた。誠人は目を疑って、息を飲んだ。映像の中の自分が、少し動いたかと思ったら、後藤の腕を振り払って突き飛ばし、激しく後藤を殴り始めたのだ。
現実の誠人は今もなお、後藤に腕を掴まれて動けないのに――。
「なっ……」
信じられず、誠人は声を上げる。だが、映像の誠人は止まらない。
馬乗りになって後藤を殴り始めた誠人は、殴られまいと必死に両手で防御する後藤を蹴り始めた。更に激しい暴行に、後藤が身体をくの字に曲げて助けを叫ぶ。監視カメラの映像なので、音はない。だが、彼の唇から、悲鳴をあげている様子が見られた。その悲鳴を聞きつけてか、バックヤードの先輩たちが、二人のそばに駆け寄ってきた。
現実の誠人は思わず、正面を向いて、二人の先輩が本当に来たのか確認した。しかし、店内は変わらず後藤と誠人の二人きりだった。
かけつけた先輩達は二人がかりで後藤から誠人を引き剥がそうとする。引き剥がされた誠人は、先輩二人を振りほどき、雑誌コーナーの対面に位置する、化粧品や文房具を取り扱うコーナーに飛びついた。そしてそこから、カッターらしき物を掴み取ると、商品を開封し、それを用いて、近くに来た先輩をまず刺す。次に、逃げようとした先輩を何度も刺し、床に転がっている後藤にも、ためらいなく突き立てた。
床に血だまりが出来始める。
誰の声も聞こえるはずがないというのに、誠人は耳の奥で、誰かの悲鳴を聞いた気がした。
(俺じゃない……)
誠人は思った。
だが、自分ですら、見間違えようがなく「自分」だった。十八年間付き合った、自分自身がそこにいた。
到底フェイクと思えない。もしかして、ここにいる自分が嘘で、凶行に走った自分の方が現実なのかも――。そんな錯覚すら始まって、パニックを起こした頭の中が、誠人の足元をぐらぐら揺らした。ついに、カメラの中の誠人も止まった。足元には動かなくなった肉塊が横たわっており、全身が血まみれになった誠人は、陽炎のように立ち上がり、振り向いた。
カメラ越しに、もう一人の誠人と目が合った。
「――現実にしたいか?」
後藤の薄暗い瞳が誠人を見ている。
次に言う後藤の言葉が、誠人にも分かった。
「蒐宮莉央は、どこにいる?」
力強く掴む後藤の腕に、恐怖心が湧き上がった。
……チャラリラリラ。
ビクッと誠人の体が震える。
聞き慣れた来店音が店内に間抜けに響いた。
いつの間にか自動ドアが開いたらしい。誠人と後藤が目を向けた時、自動ドアは緩やかに閉まるところだった。
極度の緊張状態にいた誠人は、息を荒げてそれを見た。客の姿は見えなかった。しかし、見慣れた日常をそばに感じ、急に店内の蛍光灯が、いつも通り眩しいとさえ思えた。
後ろを振り返って客の姿を確認していた後藤は、音はしたものの店内に誰も増えていなさそうなことに、ふっと警戒を緩ませた。
水を差された不快さを滲ませ、再度誠人の方に向き直る。後藤は仕切り直すため、もう一度、口を開こうとした。
その時、誠人は再度、目を疑った。
今度は、誠人の視線は、後藤のカメラの中にはなかった。
カメラより下、後藤の左脛の隣あたりを、目を凝らして見つめていた。
怪訝そうな顔をして、後藤も誠人の視線を追う。
自分の左下に目を向けた時、後藤は誠人と同じものをその目に映した。
三十センチはゆうにある、大きなスニーカーが、後藤の隣に並んでいる。
しかもそれは、外れた人形の足をぽんと放置しているように、突如として左足首だけがそこに置いてあったのだ。
ぎょっとして後藤の身体が右に跳ねた。それを強引に、誰かの右手が押し止める。後藤はその右手にも驚愕した。大きくて長い指が、後藤の右肩を掴んでいた。
以前として、現れた手と足に続く胴体は存在しなかった。
本来あるはずの場所を見ても、見えるものは見慣れた店内だけだ。
(こんな、こんなことって……!)
自分の視界が信じられない。何もかもが夢だと言われたほうが納得できる。
驚いた後藤がようやく誠人の手を離した。しかし離された側も、離した側も、それに気付かず、ただひたすら手足を見つめた。
まるで透明のカーテンをくぐるように――あるいは水面から浮かび上がるように――手足の持ち主が二人の前に姿を現す。
誠人が呼ぶより先に、その人物が後藤に向かって微笑んだ。
「探さなくても俺はここだよ」
現れた蒐宮莉央に、後藤の顔が蒼白した。
***
「あっ……蒐宮莉央……!」
後藤が悲鳴のように叫ぶ。
莉央と後藤の身長差が大きいため、後藤はまるで、とらえられた宇宙人のようにみすぼらしい。
呼ばれた莉央は、不遜な態度で顎をしゃくった。
「大声出すなよ、迷惑だろ? お前だって、目撃者は少ないほうがいいはずだ」
後藤は呻いて口を閉ざした。
タイミング悪く、再度来店音が鳴り響く。はっとして誠人が目を向けると、遅刻魔の深夜番が、慌てた様子で店内に駆け込んできたところだった。
振り返って店内の時計を確認する。二十二時一分前。シフトの終わりだ。
駆けてきた深夜番は、慌てすぎていたために、バックヤードのみを見ており、誠人たちに気付かずその場を去っていった。
肩越しにその様子を見ていた莉央は、冷ややかな視線を後藤に戻す。
「ちょうどいい。移動しよう」
移動って?
あいにく、誠人に問いかける暇はなかった。
莉央が言葉を発した瞬間、誠人に見えている景色が、正面に引っ張られるように流れていった。
テーブルクロスを引っ張った時のようだ。景色がどこかに吸い込まれ、背中側が空白の世界に一瞬染まる。
そしてコンビニ風景が完全に消えたと分かった時。誠人達三人は、草原のど真ん中に立っていた。
驚いているのは誠人と後藤の二人だけだ。
涼しい顔をした莉央は後藤の肩から手を放し、ゆっくり歩いて誠人の方に近づいた。
はっとして、後藤も莉央から距離をとる。
一人混乱の続く誠人は、「いっそ気が狂いそうだ」と頭の中で文句を言った。こんなことが続きでもしたら、正気を保つ自信がない。
草原には風が吹いていた。
空は曇っていて、太陽も月も見えないが、昼間のように明るかった。
短い草が、波打つように揺れている。
草と土の温かな匂いが鼻腔をくすぐり、どこか見たことがあるような風景に、誠人はつい、気持がほぐれるような感じがした。
揺れる草が、誠人のジーパンをくすぐっている。
残念なのは、美しい自然に似合わず、少し離れたところで、廃車が何台か、スクラップ工場のように積み上がっていることだけだった。
夢とは到底思えない。だが、現実の草原とも言いがたい。
あたりは中学校のグラウンド程度には開けていた。見通しも良く、草も土も本物だ。
だが、夜とも思えないほど明るく、グラウンドを囲うように、深い靄が覆っている。
まるで壁のようだ。あの靄の先に何があるのか、本当に土地が続いているのかさえ怪しむほど、生き物の気配一つしなかった。
虫一匹飛び跳ねない。
静かすぎて耳鳴りがする。
(……魔法使い)
誠人はもう一度、その言葉を思い出した。
子供っぽく、手放しで信じるには馬鹿馬鹿しいほどのこの言葉。
だがそれ以上に、これらの現象を説明できる言葉もない。
(魔法使いが存在する――)
立ち尽くす誠人を無視し、二人の魔法使いは、一定の距離を保ちながら対峙した。
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