第三十四話
「落ち着いてくれたかな?」
「はい……。無様にも取り乱してしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「構わないよ。互いに分かり合い、末永く
夕霧の背中の辺りをぽんぽんと軽く叩いてから、鉄が体を離す。少し前までの剣呑な様子はどこにもなく、普段通り柔和な表情を浮かべた彼がそこにいた。笑顔なんて見慣れたと思っていたのに、何故だか今はドキリとしてしまって、夕霧は微妙に視線を逸らした。
「お戯れを……。……鉄様、その、契約のお話を一度考えないものとした場合に、私めが貴方様のお役に立ちたいと願うことは、ご迷惑になるのでしょうか?」
「君の気持ちが迷惑になるはずがないだろう? ただ、自らを顧みない自己犠牲の精神は、いただけないかな。先ほども話した通り、僕たちは君と仲良くなりたいんだ。君ばかりが傷付く姿など、見たくはないんだよ」
「ですが……」
「まあ、人間すぐには変われないものだからね。時間をかけて少しずつでも理解してくれればいいよ。
あくまで優しく、けれども有無を言わさず、体を押されて布団へ戻った。体に巻いていた
「食事と漢方薬を用意してくる。今日は僕も外出の予定がないし、君が働かないよう見張らせてもらうから、そのつもりでね」
どこか愉しそうに言い残し、主が部屋から出て行く。昨日と違い、その背を見送る夕霧の中に焦燥感はなかった。代わりに不可思議な熱が灯っているだけだ。
仲良くなりたいと言われたことも、両親以外の人間に世話を焼かれたこともない夕霧は、鉄の言動の一つ一つをどう受け取って良いものか悩んだ。いや、彼だけでは済まない。この屋敷の全員に対して、これからどんな対応をするべきなのか分からなかった。むず痒くて、温かくて、申し訳なくて、
鉄が戻って来るまで、夕霧は布団の中で縮こまっていた。
宣言通り、その日は一日、鉄が傍についていてくれた。本人は見張りだと言うが、実態はもちろん看病である。壁を向くように設置してあった文机をわざわざ移動させ、自身の視界へ夕霧を収められる位置に固定する徹底ぶりだ。同じ部屋で仕事をしつつ、夕霧の動きを
これまでの人生の中で、何もすることがない時間など、果たしてどれだけあっただろうか。ずっと何かに没頭していて、それを普通だと思っていた夕霧は、「退屈」の手懐け方を知らない。ぼんやり天井を眺め、時折、寝返りを打ってみるのにも飽きてしまった。
手持無沙汰になると、夕霧の脳は思考を始めてしまう。鉄に背を向ける体勢を作り、目を閉じて思考の海へ潜ってゆく。
喜三郎が亡くなった事件について、当日の様子は
鉄と共に整理した状況をなぞる中で、夕霧はふと違和感に気付く。
(事件当日、男はさよ様の存在に気付かなかった。そもそも喜三郎様に妹がいることを知らかなったのでは? 知っていたなら、わざわざ日を改めずともその場で手にかけていたはず。そうならなかったということは……事件後、誰かが男へ喜三郎様の家族構成を吹き込んだ……?)
一般人の家族構成など、調べようと思えばいくらでも手段はありそうなものではある。男が喜三郎を殺害したと知った阿片密売組織の人間が、念のためにと調査を実施して知り得ただけかも知れない。しかし、そうではなかったとしたら。
家族構成を知っているほど近しい人間が、敵側についているのだとしたら──。
勝手な想像に、夕霧は一人、身震いをした。
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