第十七話

「――最後となりますが、こちらが奉公人用の長屋にございます」


 昼食とその片付けを済ませた夕霧は、若い女中に連れられて屋敷の中を歩いて回った。頭の中で立体の見取り図を組み立てながら見学したが、主屋を一周する頃には疲労で精度が下がってしまっていた自覚がある。先ほど尋ねた松平家の屋敷といい、何故金のある人間はこうもだだ広い家に住みたがるのか。理解できる日は訪れないだろうと思う。


 少しの休憩を挟んで最後に案内されたのは、主屋のおよそ半分程度の面積の建物だ。それでも人が暮らすには十分過ぎるほどの広さがあるように見受けられる。手入れも行き届いているようで、主屋と同様に清潔感のある外観だった。中へ足を踏み入れても、埃が舞う様子はない。


 朝比奈邸を視察するにあたり、夕霧が最も入念に見ておきたかったのは奉公人たちの生活区域だ。阿片中毒により亡くなった喜三郎がどこで、どのような生活を送っていたのかを知ることは、事件の調査において必須事項である。


 長屋の中には、台所に風呂場、厠、それに大きめの座敷が一つと、小さめの座敷が二つほど備えられているようだった。小さな座敷はそれぞれ、男性陣が専用で使用できる部屋と女性陣が専用で使用できる部屋として区別されているらしい。個人の私室まではなさそうだ。


「皆様は、こちらに住み込みでお勤めになっているのでございますか?」

「住み込みの者と、通いの者とがおりますね。前者のほうが多いのですけれども、外に自宅や家庭がある者は、勤めを終えるとその足で家路につき、翌朝早くにまたお屋敷へと馳せ参じているのでございます」

「左様でしたか。それぞれ苦労や不便を感じる場面もあったことと存じます。私めも微力ながらお力添えさせていただきたいと考えております故、何かあれば遠慮なくお申し付けくださいまし」

「いえいえ、そのような! 奥様の手を煩わせぬよう、一層気を引き締めて勤めにあたらせていただきます!」


 鉄の話では、喜三郎が常用していたと思われる阿片煙膏えんこうが出てきたのは彼の私室とのことだった。と言うことは、彼は通いで勤めており、薬物が見つかったのも自宅だったのだろう。屋敷に露骨な痕跡が残っているとも思えない。


 そうなると、他にできるのは喜三郎の為人ひととなりを聞いて回り、性格や交遊関係を洗い出すことくらいだろうか。可能ならば彼の自宅へ足を運び、周辺での聞き込みも実施したいところである。鉄が夕霧に求める働きがどの程度のものかは定かでないが、すでに途方もない金と労力を使わせている手前、半端な仕事はできない。できる限りのことをやり尽くす心意気で望むべきだろう。


「奥様、この後は如何なさい……きゃっ!?」


 夕霧が自分の今後の方針を整理していると、こちらを振り向いた女中が足を滑らせた。反射で手を伸ばしたものの、間に合わずに転倒させてしまった。幸い怪我はないようで、恥ずかしそうに笑っている。


「いたた……。申し訳ございません、お見苦しいところをお見せいたしました」

「お気になさらず。立ち上がれますか?」

「は、はい!」


 改めて手を差し伸べれば、女中は何故だか感極まった様子で手をとってきた。


【どのような方がいらっしゃるのか不安もあったけれど、とても素敵なお方で良かった……! お美しくて、お優しくて、憧れてしまうわ。旦那様が惚れ込むのも頷けるわね】


 彼女の手を掴んだ途端、その胸の内が夕霧の頭に流れ込んでくる。何やらとても気に入ってもらえたらしい。忌憚のない賛辞の言葉が並び、むず痒い気持ちになってしまう。それに――。


(旦那様……鉄様が、惚れ込む?)


 異質な言語が聞こえた気がして、それまでの思考が吹き飛んだ。奉公人たちからは、そのように見えているのだろうか。突然現れた夕霧を皆が抵抗なく受け入れたのも、その刷り込みがあったからか。


(私の預かり知らないところでも、鉄様は夫婦に見せかけるための芝居を徹底していらっしゃるのね。人の目がある場所では、私も気を付けなければ……)


 流石に、大勢の前で「綺麗だ」と言って抱き締めるような真似をするのは気が引ける。彼が拒絶を示す境界線も分からないのだし、そこまで大袈裟な言動は取らなくてもいいだろう。ただ、夫婦であるという意識は持っていたほうが良さそうだ。夕霧は自分の脳内に新たな仕事を書き足した。

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