ファントム、夜に駆ける3

「もう! 電気は制御できたのに、なんで開かないのよ!」


 ユキはキーボードを叩きながら叫ぶ。


「落ち着いて、きっと出来る! 大丈夫だよ!」


 流れる鼻血を拭かれ、背中をポンと叩く手に、ユキは少し落ち着きを取り戻す。


「うん、出来る。ううん、やらなきゃ」


 ユキは、自らの脳細胞を酷使し、隔壁のロックシステムの、神の領域とも言えるプロテクトへと、意識をねじ込んでいく。


「開いて……、お願い……、開けぇぇぇぇ!!」


『認証(オーソライズ)……隔壁ロック、強制解除(アンロック)』


 彼の頭上から、合成音声が響き渡った。ユキが、施設の管理AIを乗っ取ったのだ。 重さ数トンはあるはずの隔壁が、音もなくスライドしていく。


 彼は、その隙間に、滑り込むように身を投じた。背後で、隔壁が再び閉じる轟音と、エージェントたちの悪態が聞こえる。


 警報と、遠くから聞こえる兵士たちの怒号を背に、灰島は、降りしきる雨の中へと、その身を溶け込ませていった。


 彼が出てきたのは、施設の地下深くにある資材搬出口だった。


 MI6の施設は、東京都の西端、奥多摩の山中に、放棄された水力発電所跡を偽装して、地中深くに建造されていたのだ。


 コンクリートがむき出しの薄暗いドックエリア。数秒ごとに首を振る監視カメラの無機質な視線。それらを、灰島は壁や機材の影を使い、まるでそこに存在しないかのように、音もなくすり抜けていく。 高いフェンスを、脇腹の痛みに顔を歪ませながらも、一息で乗り越える。


 その先は、人の手を拒絶するような、深い自然の闇が広がっていた。


 頬を打つ、夜明け前の冷たい雨。滅菌された施設の空気とは違う、湿った土と、濡れた杉の葉の匂いが、彼の肺を満たした。


 足元はぬかるみ、急な斜面が彼の体力を容赦なく奪っていく。


 それでも彼は、足を止めなかった。近くを流れる沢の音を頼りに、ひたすら下流へと向かう。


 それは、追跡を困難にするための、基本的な逃走術だった。




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